水底にて君を想う 水底【4】
「大丈夫だ、後で片付けさえすれ……のわっ!」
バレットの上に、突然、葵達が出現する。
「何やってるんや!?」
「すごいことになってるわね~」
紫穂はキッチンを見回す。
皆本の聖域は、いまや台風が通り過ぎたかのような有様だ。
「あ、いやこれは……て、いうかどいてやってくれると」
ティムは、三人に潰されているバレットを半分羨ましい思いで見る。
「ごめん、ごめん」
慌てて薫は空中に浮かび上がる。
「ちょっと、目測誤ってしもうたわ。かんにんな」
葵は、バレットに手を差し出す。
バレットは少し躊躇いながら、そっとその手を取って立ち上がる。
黒い服を着ていただけに見るも無残なほど粉まみれだ。
「ケーキ、作ってたの?」
テーブルの上に置かれた、焼け焦げたスポンジを紫穂は指でつついてみる。
レンガのように固い。
ティムは困ったような顔をすると、バレットの方を見る。
「……俺達、今回何もできなくて、その葵どのたちも元気がないですし」
「だから、元気づけられねえかなって……何ていうか、ケーキとか皆、好きだよな、とか思ってさ」
紫穂がクスリと笑う。
透視えたのは、ティムがアニメを見ながら『これだ!』と叫んでる姿。
ふと、クリームに目がいく。
お世辞にも美味しそうには見えない。
指につけて、口に運ぶ。
「あ、止めた方が」
ティムが青くなって止める。
「……ふふ、美味しい」
口の中に優しい思いと、甘い味が広がる。
「ええなー、こういう時、サイコメトラーって」
葵が口を尖らせる。
「あら、味も悪くないわよ」
ほら、と紫穂は指にクリームをつけ直す。
葵はそれを舐めてみる。
「ほんまや、美味しい……って、二人とも何赤くなってのや?」
ティムとバレットは目をまん丸にして、葵と紫穂を見ている。
いえ、なんでも、と二人で慌てている。
と急に強い力で、引き寄せられる。
「ち、違うんです薫どの、決してやましい気持ちでは!」
「俺も、俺も違うんだ、ちょっと何て言うか!」
慌てる二人をギュッ、と抱き締める薫。
「ありがと、二人とも!」
薫は顔を上げて、紫穂と葵を見る。
「紫穂、葵、あたし達が落ち込んでても仕方ないよね。絶対助けるって言ったんだから」
「薫」
葵が笑い返す。
紫穂は薫を見つめ返す。
(本当は私、センセイを助けていいのか迷ってた……)
薫の瞳が力強く輝いている。
「……そうね、叩き起こしてやらないとね」
そう言って紫穂は笑った。
水の揺れが肌を通して伝わってくる。
賢木はゆっくりと目を開けた。
黒で塗りつぶされていた世界にほのかな光。
(……?)
体を起こそうとして、賢木は自分の腰から下が上手く動かないことに気がつく。
ヘドロのようなものに埋まっている。
それでも何とか上半身だけ起こす。
(み、皆本)
まるで、蛍のようなほのかな光を発しながら、皆本がそこにいる。
(まいったな……正気だと思ったが、やっぱり駄目らしい)
賢木は苦笑いを浮かべる。
そちらにそっと手を伸ばす。
皆本は賢木に気がついたのか、駆け寄ってくる。
(律儀だなぁ俺。想像の産物だってのにしっかりスーツに眼鏡だよ)
立ち上がることの出来ない賢木に皆本は膝を落とす。
「賢木」
音が耳に届いた。
驚くほど優しい声だと、賢木は目を細める。
ここは自分の精神の中。
この皆本は無意識に作り出した幻影のようなもの。
賢木はそう思いながら、皆本の頬に指を伸ばす。
触れた所から熱が伝わってくる。
「賢木」
また呼ばれる名前。
皆本は心配そうに眉間に皺を寄せ、賢木に顔を近づけてくる。
腕を取って、賢木を立ち上がらせようとしているのだろう。
(ああ……)
賢木は軽く息を吐き出して、腕を皆本の首筋に回す。
皆本は驚いたように動きを止める。
「皆本……」
そっと囁いて、賢木は皆本の唇に触れた。
皆本の目が大きく開かれる。
賢木は腕に力を込め、その体を引き寄せる。
「んっ……」
重なり合った唇から、皆本の声が漏れる。
想像よりもずっと柔らかい感触。
賢木はそれを惜しむように、ゆっくりと皆本を解放する。
皆本の動揺が伝わってくる。
その顔を見ることが出来ず、賢木は皆本の首筋に顔を埋める。
(いいよな……本物には言えねぇけど、こいつになら)
賢木はきつく目を閉じる。
それでもほのかな光が瞼を照らす。
「……好きだ……」
搾り出すような声だった。
「お前が好きだ、皆本」
一度言葉にしてしまえば、それは押さえ難いものへと変わる。
皆本の体を掻き抱きながら、好きだ、と何度も繰返す。
震える皆本の手が、賢木の背中に触れる。
賢木は顔を歪ませると、腕の力を抜く。
「……ごめん、本当にごめんな」
声が掠れている。
「気持ち悪いよな、こんなの」
ごめん、と呟く。
と、いきなり胸倉を掴まれた。
項垂れていた賢木を皆本の腕が無理やり引き上げる。
目の前に光る眼鏡。
「ふざけるなよ、賢木」
低く抑えた声に、怒気が満ちている。
「気持ち悪いってなんだ!?」
皆本の声が賢木の耳朶を叩く。
賢木は目を白黒させた後、ようやく皆本の顔をしっかりと捉える。
自分が知っている姿より、少しばかりやつれた頬。
賢木は一瞬、頭が真っ白になった。
「み、皆本っ!?」
声が裏返る。
「そうだよ」
「な、なにが『そうだよ』だ。ふざけんな、何しに来やがった!」
賢木は皆本の腕を振り払いながら、思わず怒鳴る。
「お前を迎えに来たんだ!」
皆本も怒鳴り返す。
「迎えに、迎えにって、お前は馬鹿か!?いかれた奴の精神なんざ、死にに来るようなもんだぞ!」
周囲の大気、いや、満ちた水が震える。
「とにかく帰れ!」
「断るっ!」
皆本の足が突然沈む。
まるで泥沼のようになって飲み込んでいく。
賢木が思わず、頭を抱える。
「帰れ、帰るんだ!」
触れ合えるほど近かったはずの二人の距離が、急に離れる。
賢木自身は動いていない。
精神の世界では、実質的な距離は意味をなさない。
「賢木!」
追いすがろうとした皆本の足がさらに沈む。
皆本の光が強まり、泥が弾かれる。
(……そうか、ここに送り込んだのは紫穂ちゃん達か)
賢木はその光に彼女達の気配を重ねる。
「賢木、逃げるな、逃げないでくれ」
皆本が一歩、賢木に近づく。
距離は縮まらない。
伸ばした手が届かない、そんな距離のままだ。
賢木の体が沈む。
ヘドロが、まるで触手のように蠢いて、その体を引き込んでいく。
「皆本、戻るんだ。今ならまだ、そのあの子達の力で帰ることができる」
「いやだ」
「……お前にとって大事なのは、俺じゃねぇだろ。間違えんなよ」
「違う!」
皆本が叫ぶ。
「違う!違う!違う!!」
光が増して、辺りの闇を押しのけていく。
「どうして、どうして、お前は、僕の気持ちを決め付けるんだ!?」
大きく見開かれた皆本の瞳から涙が零れ落ちる。
「皆本?」
「お前が、賢木が、大事なんだ!」
叫んだ言葉が、水を揺らした。
皆本は大きく息を吐き出す。
呼吸を、気持ちを落ち着ける。
作品名:水底にて君を想う 水底【4】 作家名:ウサウサ