夜鷹の瞳4
◇ 第四夜 ◇
マグリブの暗殺から一夜明け、目を覚ましたジャーファルは久々に体が重くて舌打ちをした。最近の仕事は愚鈍で肥えた輩の始末しかしてなかったので久しぶりに本気の戦いをした。だが久しぶりとはいえ、相手を仕留め損ねたことにジャーファルは腸が煮える思いだった。
ジャーファルたちが根倉にしているのはスラム街のはずれ、建物の隙間に張った粗末なテントの中。ジャーファルは軋む体をほぐすとテントから抜け出て井戸で顔を洗い、顔を隠す口布を巻き直すと天を仰いだ。太陽が真上にあるということはずいぶん寝てしまっていたようだ。ジャーファルはテントに戻って布団の中から一冊の本を探り出し、それを小脇に抱えるとスラム街の一角にある娼婦小屋に向かった。
光が届きにくく湿気った路地をジャーファルは行き、娼婦小屋の入り口に掛けられた布をくぐると酒と汗と精液の混じった嫌な匂いが充満していた。口布をしていてもなお匂いは鼻を突いた。もう陽は高いが客がまだ何人か残って寝ている。起こすと今度は自分が相手をさせられそうだから、ジャーファルは風がすり抜けるように静かに奥にあるシェラザードの寝床に向かった。
「シェラザード」
ジャーファルが名を呼び裸で横たわる彼女の肩を揺すると、シェラザードは身動ぎもせず静かに覚醒して身体を起こした。
「ジャーファルね。まったく……、昼に娼婦を訪ねるんじゃないよ。あんたと違ってあたしはあの後も仕事してたんだからね」
「本の続きを教えてくれ」
「『下さい』でしょ。先輩には敬語を使いなさい」
「…………………教えて下さい」
「よろしい。あと目が見えない人間に気配を消して近づかないでちょうだい」
「消してたって気付くんだからいいじゃないですか」
ジャーファルが指摘すると、そうね、と言ってシェラザードはいたずらっぽく笑った。
「何か動けば空気が動くからね。凄腕暗殺者でもさすがに空気を動かさずに歩けないでしょ?」
シェラザードは乱れた黒髪を指で梳き整えると、床に落ちていた服を纏って立ち上がった。
「水を浴びてくるから先に広場にいってなさい」
ジャーファルはこくりと頷いてから相手が盲目なことを思い出して「わかった」と声に出した。シェラザードがそんなジャーファルの気遣いを見抜いていたかどうかはわからないが、「いい子ね」と優しく笑った。
*
ジャーファルは広場――とスラムの人たちが言ってるただのゴミ捨て場――の木箱が積み上がっている一角に腰を下ろした。そこが二人の定位置だった。
シェラザードはこの国にジャーファルたちが来た時に、頭領が『商人』から紹介されて贔屓にしている娼婦だった。殺しに関しては素人だが娼婦ではめずらしく学があったので、時々対象者の閨の相手をして情報を探らせるのに使うようになった。そしてお世辞にも人付き合いが上手いとは言えないジャーファルのフォローのため暗殺の手伝いもするようになった。
おそらく頭領はジャーファルをシェラザードのように知識も備えて潜入にも使えるようにしたかったのだろう。シェラザードから文字の読み書きを教わり、最初は乗り気でなかったが簡単な本を読めるようになるとジャーファルは言葉の虜になった。それを見抜いてシェラザードは自分が持っている本を全てジャーファルにあげて惜しみなく知識を与えた。
本は何度も繰り返し読むのでもうボロボロで気を付けないとページが抜け落ちてしまいそうだった。ジャーファルは本の表紙を撫で、不思議なものだなとしみじみ思った。自分の中に何かに夢中になれる心が残っていただなんて。
ジャーファルは親に売られるために生まれてきた。男だったから高く売れるだろうと両親は期待したが痩せすぎだったために思いの他いい値段がつかなかった。両親は落胆し、それでもジャーファルを奴隷商人に売った。そして今の頭領に買われて暗殺者としての教育を受けた。
色事は幼い頃から慣れている。頭領が自分の下の世話をさせたからだ。しかしジャーファルが成長して顔立ちが整ってくる頃、そっちの使い道もいけるかもしれないと暗殺の他に男娼まがいのこともさせられるようになった。抵抗するという思考すら持たぬよう教育されてきたため、ジャーファルはいつも男の気がすむのを羊でも数えてじっと待っていた。心の殺し方を覚えた。感じる心をなくせば、この世を痛みも苦しみもない無味の世界にできた。
それにしても顔はともかく体は筋っぽいので女には見えないと思うのだが……と、ジャーファルが二の腕の筋肉などを触って身体つきを気にしていると、ふと頭上に翳りができて見上げると身なりを整えたシェラザードが立っていた。
「なに、また女に間違えられたから不機嫌になってるの?」
シェラザードは目が見えていないはずなのにジャーファルの心情を言い当てた。
「不機嫌になんかなってません」
「なってるわ。むしろ私に指摘されて更にムッとしてる」
「……なってません」
ジャーファルが頑なに返すとシェラザードはクスクスと笑って、ジャーファルの隣に腰を下ろした。
「そんなに嫌ならもう少し鍛えなさい。細すぎなのよ」
「……頭領から女装ができなくなるから筋肉をつけすぎるなと言われているんです」
「じゃあしょうがない。でもあたしは女も男も相手にできて一石二鳥だと思うけどね」
「『いっせきにちょう』ってどういう意味ですか?」
「鳥を仕留めようと一個の石を投げたら二羽の鳥が捕れた出来事から、『お得』って意味をあらわすの。手を貸してごらんなさい」
ジャーファルが言われた通りに手を差し出すとその言葉を指でジャーファルの手のひらに書いた。新しい言葉を教えられたジャーファルはそれを繰り返し口に出し唱え、頭の中の辞書に書き記した。
「それにしてもこんなに需要があるんだし、あんたも暗殺なんてリスク高い仕事辞めて男娼になれば? 少年好きの金持ちの親父は結構多いのよ」
「いやです」
「親父がいやなら金持ちのおばさんの需要もあるわよ?」
「相手の性別の問題じゃありません」
「わかったわかった。だけどせっかくきれいな顔に生まれたのにそれを嫌がるなんて贅沢な子ね」
そう言ってシェラザードはしなやかな指先でジャーファルの顔を撫でて作りを確かめた。ジャーファルは目が見えない彼女がそうやって触ることで物を見ることを知っているのでじっとしていたが、からかうように小さな鼻をつままれたので怒ってその手を払いのけた。
「遊んでないでちゃんと教えてください!」
ジャーファルが怒鳴るとシェラザードは腹を抱えて広場中に響くくらい大声で笑った。
「本当に遊びがいがある子ね。あたしの仕事仲間にも人気があるのよ、可愛くて食べちゃいたいって」
「結構です」
「失礼な子ね。この辺の娼婦は上玉だって立派な屋敷に呼ばれることもあるのよ? まあ、いいわ。始めましょうか」