月のひかり、星のかげ
第一話 南の一つ星
『……お前は本当に星が好きだなあ』
呆れたような呟きが夜空に舞う。何の気配も、前触れもなく現れた彼にソラは僅かに目を剥いたけれども、すぐに『うん』と頷いてみせた。
振り向くよりも早く、彼が側に来ることは分かっていたから敢えて振り向くことはしない。望遠鏡の焦点を合わせる作業に戻ると、予想通り、隣に彼が腰を下ろす音がした。視界には彼のズボンの裾しか入らなかったけれども、表情は簡単に思い浮かべられる。
『それで、今は何を見ているんだ?』
『アンドロメダ銀河。ほら、今真上にあるアンドロメダ座の腰の辺りにさ、淡い黄色の光があるでしょ? あれは二百三十万光年も先にある星の集まりで、満月の五倍位おっきく見える……』
『……一端の解説者だな、もう』
数千億個もの恒星を巻き込んだ小宇宙を前に力説すると、彼は苦笑した。『いつからこんな天文オタクになったんだか』と肩を竦めたその仕草に、その切っ掛けを作ったのは誰だと反論しようかと思ったソラだったが、遅れて振り向いたその先にあった笑顔を見て、止めた。――自分と良く似た双眸があまりにも、優しい光を湛えていたからだ。銀縁の眼鏡の奥にある光は、温かく自分を包み込む。
『まあ、夢中になるものがあるのは良いが、気を付けろよ?
最近はこの辺も物騒だし、夜は冷え込むんだから』
溜息混じりに呟いて差し出すのは、快晴の空の色をしたウインドブレーカー。寒がりの彼は、自分が暑がりだというところを考えずに世話を焼いてくれるのが玉に瑕だ、が、人に言わせると自分も同じことを他人にやっているそうなので、素直に受け取ることにする。
ネイビーブルーのシャツの上からそれを着込むと、彼は穏やかな笑みを浮かべた。心配性だな、と思うソラの胸中など彼は知る由もないのだろう。反対に、ソラはソラで彼の胸中を知る術などない。
例え、どんなに似ていても、どんなに側にいたとしても。
『しかし……そんなに遠くのものばかりを見ていて、近くのものを見落とすんじゃないぞ』
そのことに、もっと早く気が付けたなら良かった。
『近くのものって?』
キョトンとして首を傾げたソラに、彼の笑みが意地の悪いものへと変化する。
『期末試験とかな。来週なんだろ? ちゃんと勉強してるのか?』
『う……っ……た、多少は』
『本当か? 今年は受験生なんだから、少しは頑張れよ?』
『……あのさ。そのことだけど、僕』
自分の言葉を遮るようにして頭に置かれた手は、大きく、温かく。
くしゃりと撫でてくる指の感触にほんの一瞬、泣きたくなったのを覚えている。その後に続く言葉も、鮮やかな笑顔も、彼の存在自体も瞼の裏に焼き付く程、誰よりも近くにあった。それなのに、
『ソラの幸せが、兄ちゃんの幸せなんだからな』
今はもう、その光さえも見えない――…
* * * * *
「………ソラ君? 大丈夫、ソラ君……?」
息苦しさに目を覚ませば、真上から覗き込んでいる少女の物憂げな顔で視界が一杯になる。ただでさえ暗い夜空の下、影に隠れた顔はとても見辛かったがその声で誰であるかは察しが付いた。
ソラは、宥めるように手を振って伝えようとする。大したことはない、と。
「あ……更紗、ちゃ、……こん、ばんは」
伝えようとして、意外にも『大した』状態であったことに気が付いた。振ろうとした手の先は痺れて上手く動かすことが出来ず、声も震えて途切れ途切れになっている。その様に、更紗があからさまに顔を曇らせるのが見えた。……まずいな、とソラは眉を顰める。
「本当に大丈夫? 誰か呼んで来ようか?」
呼吸困難に陥ること自体は、そう懸念すべきことではない。今までも散々経験してきたことだからだ。……随分、ご無沙汰ではあったが。
「いや……へ……いき……」
真にまずいのは他人の手を煩わせることだと、ソラは思っていた。
これまでの経験上、この状態で命が危なくなることはないとソラは知っている。そして、この『発作』を治す為に最も必要なのは冷静な対処であることも分かっている。だけれども、周りに焦られてしまっては中々自分も落ち着くことが出来ないのである。
案の定、慌てふためいている更紗に釣られないようにと、ソラは目を閉じた。同時に、指が動かないままの手の平を耳に当てて外部の物音も遮断する。――意識を、現世から隔絶して自分の中へと閉じ篭る。
そこはただひたすらに暗く、静かな世界だった。
視界を閉ざしたのだから、当然と言えば当然なのだけれども。
目の前に広がる暗闇に自身(いしき)を落とし込むと、ソラは大きく息を吐いた。どくどくと脈打つ己の心音だけが響くそこは、つい先程まで眺めていた夜の空と同じ色をしている。ただ一つ、違うことがあるとするならば、空には月や星があり、ソラには――…ソラの中には、そういった類の光が見当たらないということだ。それは、ひどく寂しい光景のようにソラは思った。
常闇の中で、たった一人きりで、自分自身を見詰めることでようやく、治まりゆく『発作』。
それは自分への罰なのだろうか、と、ふと思い至ったソラだったが、その刹那に、動悸がまたしても駆け足を踏み始めたので考えることを放棄した。……実に厄介な発作だ。
一度目の溜息は、過剰に取り入れた吸気への対処。二度目の溜息は、無意識の内に零れ出た徒労感。げんなりと肩を上下させると、胸の上を滑る温もりに気が付いた。ゆっくり瞼を開くと、憂えた表情の更紗が小さなその手を這わせていた。その様子に「あり、がと……さら、さちゃん」と息も切れ切れに呟くと、気丈に笑う。意地で、笑顔を浮かべる。
「もう、だいじょ……ぶ、だよ。随分、楽に……なった、から」
そう言って、まだ痺れの残る手を重ねると、更紗はますます表情を歪めた。想定していた反応とはまるで正反対の結果に、ソラは辟易する。――参ったな、と。困り果てたソラの口から零れ出たのは、三度目の溜息だった。やっと『発作』が沈静化しつつあるというのに、更紗がこのことを引き摺ってしまっては、まずい。
そろそろ、パルやショウコがやって来る時間なのだ。現時点で、二人はこの『発作』のことを知らないでいる。実のところ、更紗にも知られたくなかったソラとしては、現状を長引かせることは本意ではなかった。
「でも、ソラ君……すっごい、苦しそうだよ。顔色も良くないし」
「へーき……ね? だ、から……そん、なか、お……しないで」
「……だけど、」
「……たの、むよ。……更紗…ちゃん」
出来る限り強い口調で懇願すると、更紗は矢張り困惑した顔で唇を噛み締めたけれども、それ以上は何も言わなかった。こちらの意を汲んでくれたらしい。労わりの手が引っ込められたことに感謝と、安堵感を覚える。
四度目の溜息を吐き出した頃には、『発作』は完全に終息していた。「あー……しんどかった……」、発声もスムーズに出来、指先も問題なく動くことをソラが確認していると、
「シンドをカッタ、ウパ? ソレはドウイウいみウパ?」
「パル。しんどい、はものじゃなくて、くたびれた、という意味よ」
事が済んだのを見計らったかのようなタイミングの良さで彼女らが姿を現した。
作品名:月のひかり、星のかげ 作家名:桝宮サナコ