現ぱろ
公孫勝に青春と呼べるようなものが在っただろうか。稽古場の中央で黙々と舞う公孫勝の姿を見つめながら劉唐は思う。
公孫勝の動きはゆったりとして見える。けれどその肌には玉のような汗がいくつも浮いていた。常は青白いほどの頬が上気して赤い。それだけ神経を張り詰めているのだ。
公孫勝の足が床を踏み鳴らす。腹に響く音が心地良い。扇が別の生き物のように優雅に泳ぐ。静謐と猛々しさが同居する公孫勝の舞が劉唐は好きだった。
自分がこの世界から抜け出せずにいるのは、この人のせいだと劉唐は思う。古い因習に縛られた世界だ。それを嫌って一度は遠ざかったが、またこの世界に戻って来てしまったのは、公孫勝の舞を見たからだ。
公孫勝のことは幼いころから知っていた。狭い世界だ。その中でも子方は目立つ。面をつけることもないので、すぐに互いの顔を覚えた。四つ年上の公孫勝は劉唐の目にひどく大人びて見えたのを覚えている。他の子供たちがはしゃいでいても、ひとりで黙々と稽古に励んでいる。そういう子供だった。
公孫勝に子供らしい子供時代というものはなかったのではないかと劉唐は思う。そして稽古に明けくれる子供らしからぬ子供時代でさえ、公孫勝は奪われたのだ。
じっと見つめる劉唐の視線の先で、公孫勝の舞はまだ続いている。肌を流れる汗は滝のようだった。飽きることもなく、公孫勝は謡い、舞う。その姿はひどく美しく、同時にひどく哀しかった。研ぎ澄まされ、凄味を増していくばかりの公孫勝の舞から、劉唐は目を離すことができない。この人の隣に立ちたい。公孫勝のシテには劉唐のツレでなくては。そう言われる役者になりたい。その思いが、劉唐を駆り立てる。
公孫勝は十三のときに両親を失った。事故だったのだと聞いている。劉唐は遊びたい盛りの九つの子供でしかなく、何の力にもなれはしなかった。事故の現場には公孫勝もいたらしい。詳しい話は聞かせてもらえなかった。九つの子供に聞かせるには酷な、悲惨な事故だったのだろうと今になって思う。
この年になれば事故のことは調べられるはずだったが、劉唐は知りたいとは思わなかった。当時を覚えている大人たちの間で、公孫勝は有名だ。当時子供であった劉唐は知らない。そのことが公孫勝の救いになるような気がする。だから劉唐は知らなくていいのだ。
事故を境に公孫勝の姿を稽古場で見ることがなくなり、劉唐も稽古に出なくなった。
劉唐は生まれつき髪が赤い。白い目を向けられることも少なくなく、それで舞台に立つときは髪を染めさせられた。生まれつきの劉唐を認めてはくれない場所だ。誰も彼もが狭い枠組みの中に劉唐を押し込めようとする。それが劉唐をひどく惨めな気分にさせた。
大人たちの声など聞こえないかのように稽古にだけ没頭していた公孫勝はいない。劉唐は舞を捨てた。
劉唐は子供で、子供らしく子供時代を満喫することに忙しかった。他愛もない日々が、だがひどく新鮮で楽しかった。その楽しさを犠牲にしてまで熱中するほどのものを劉唐は公孫勝のいない舞台の中に見つけられなかったのだ。
公孫勝が動きを止める。肩で息をしていた。稽古着の色が汗を吸って濃い色に変わっている。髪もまた濡れて濃い色に見えた。こちらへ向かってくる公孫勝に、劉唐は手拭いを差し出す。
「どうだった?」
「素晴らしかったです」
汗を拭う手を止めて、公孫勝がちらりと笑った。息はまだ荒い。
「おまえは、いつもそれだ。それでは、参考にならん」
荒い息の間でも染みるように静かな声だった。この声が劉唐は好きだ。古風な話し方も。劉唐を見て目だけが笑う。その笑みも。公孫勝は心を許していない人間には笑いかけない。唇だけが笑みの形を作っても、目は決して笑わないのだ。その公孫勝が、劉唐には目元だけで笑いかける。それがとても誇らしかった。
公孫勝が汗で濡れる髪を拭う。公孫勝の髪の色は茶色い。けれど公孫勝が髪を染めることはなかった。うるさがたの年より連中も、実力で黙らせる。それが公孫勝だった。静けさの中に猛々しさも隠している。冷たい肌の下の熱い血潮を感じるからこそ、劉唐は公孫勝に惹かれるのだった。
劉唐は立ち上がると稽古場の中央に立つ。今度は劉唐が舞う番だった。公孫勝の眼差しが鋭くなる。この眼差しに適う舞を舞えるか。体中に緊張が走る。胃が絞られるようだ。けれどこの緊張感が劉唐は嫌いではなかった。呼吸を整えて背筋を伸ばす。
稽古場を一歩出れば、まったく違う世界が広がっている。着物を着ることもなく、扇を持つこともない。制服に身を包んで、学校へ通う。髪が赤いせいで、劉唐はチャラいとさえ思われていた。
学校には友人もいるし、楽しい。学校に通いながら稽古を続け、かつ公孫勝について行くのはきつい。それでも、一度は捨てたこの場所が、今の劉唐の居場所だ。二度と離れることなど思いもよらない。公孫勝が舞い続ける限り、劉唐も舞い続ける。
かつては公孫勝もこの世界から遠ざかるのだろうと決めてかかっていた。けれど公孫勝は舞を捨ててはいなかった。捨てられるはずがないのだ。
再び舞台に戻った公孫勝の舞を、劉唐は思い浮かべる。無垢な悦びに包まれた天女がそこにはいた。劉唐が知っていた、公孫勝という人物の印象からは程遠い。けれど間違いなく公孫勝の舞だった。両親を失い、自身も少なからぬ傷を追ったはずだ。けれど傷の痕跡など欠片も感じさせない。
どうして。
どうして悦びの舞など舞えるのか。涙が溢れて止まらず、公孫勝は舞台から離れては生きてゆけぬのだと理解した。そうして、自分も舞台に戻るのだと強く思った。
舞台の上では公孫勝は鬼神にも天女にもなる。その隣に立ちたいと強く願った。かつては狭い囲いの中に押し込められると感じた。けれど舞台には無限の世界が広がっている。
退屈な授業、放課後の他愛もない無駄話、部活動、ゲーム、流行りの音楽とファッション。女の子との恋。そんな何の変哲もない、けれどかけがえのない青春を犠牲にしても、惜しくないものがここにはあるのだ。
公孫勝の動きはゆったりとして見える。けれどその肌には玉のような汗がいくつも浮いていた。常は青白いほどの頬が上気して赤い。それだけ神経を張り詰めているのだ。
公孫勝の足が床を踏み鳴らす。腹に響く音が心地良い。扇が別の生き物のように優雅に泳ぐ。静謐と猛々しさが同居する公孫勝の舞が劉唐は好きだった。
自分がこの世界から抜け出せずにいるのは、この人のせいだと劉唐は思う。古い因習に縛られた世界だ。それを嫌って一度は遠ざかったが、またこの世界に戻って来てしまったのは、公孫勝の舞を見たからだ。
公孫勝のことは幼いころから知っていた。狭い世界だ。その中でも子方は目立つ。面をつけることもないので、すぐに互いの顔を覚えた。四つ年上の公孫勝は劉唐の目にひどく大人びて見えたのを覚えている。他の子供たちがはしゃいでいても、ひとりで黙々と稽古に励んでいる。そういう子供だった。
公孫勝に子供らしい子供時代というものはなかったのではないかと劉唐は思う。そして稽古に明けくれる子供らしからぬ子供時代でさえ、公孫勝は奪われたのだ。
じっと見つめる劉唐の視線の先で、公孫勝の舞はまだ続いている。肌を流れる汗は滝のようだった。飽きることもなく、公孫勝は謡い、舞う。その姿はひどく美しく、同時にひどく哀しかった。研ぎ澄まされ、凄味を増していくばかりの公孫勝の舞から、劉唐は目を離すことができない。この人の隣に立ちたい。公孫勝のシテには劉唐のツレでなくては。そう言われる役者になりたい。その思いが、劉唐を駆り立てる。
公孫勝は十三のときに両親を失った。事故だったのだと聞いている。劉唐は遊びたい盛りの九つの子供でしかなく、何の力にもなれはしなかった。事故の現場には公孫勝もいたらしい。詳しい話は聞かせてもらえなかった。九つの子供に聞かせるには酷な、悲惨な事故だったのだろうと今になって思う。
この年になれば事故のことは調べられるはずだったが、劉唐は知りたいとは思わなかった。当時を覚えている大人たちの間で、公孫勝は有名だ。当時子供であった劉唐は知らない。そのことが公孫勝の救いになるような気がする。だから劉唐は知らなくていいのだ。
事故を境に公孫勝の姿を稽古場で見ることがなくなり、劉唐も稽古に出なくなった。
劉唐は生まれつき髪が赤い。白い目を向けられることも少なくなく、それで舞台に立つときは髪を染めさせられた。生まれつきの劉唐を認めてはくれない場所だ。誰も彼もが狭い枠組みの中に劉唐を押し込めようとする。それが劉唐をひどく惨めな気分にさせた。
大人たちの声など聞こえないかのように稽古にだけ没頭していた公孫勝はいない。劉唐は舞を捨てた。
劉唐は子供で、子供らしく子供時代を満喫することに忙しかった。他愛もない日々が、だがひどく新鮮で楽しかった。その楽しさを犠牲にしてまで熱中するほどのものを劉唐は公孫勝のいない舞台の中に見つけられなかったのだ。
公孫勝が動きを止める。肩で息をしていた。稽古着の色が汗を吸って濃い色に変わっている。髪もまた濡れて濃い色に見えた。こちらへ向かってくる公孫勝に、劉唐は手拭いを差し出す。
「どうだった?」
「素晴らしかったです」
汗を拭う手を止めて、公孫勝がちらりと笑った。息はまだ荒い。
「おまえは、いつもそれだ。それでは、参考にならん」
荒い息の間でも染みるように静かな声だった。この声が劉唐は好きだ。古風な話し方も。劉唐を見て目だけが笑う。その笑みも。公孫勝は心を許していない人間には笑いかけない。唇だけが笑みの形を作っても、目は決して笑わないのだ。その公孫勝が、劉唐には目元だけで笑いかける。それがとても誇らしかった。
公孫勝が汗で濡れる髪を拭う。公孫勝の髪の色は茶色い。けれど公孫勝が髪を染めることはなかった。うるさがたの年より連中も、実力で黙らせる。それが公孫勝だった。静けさの中に猛々しさも隠している。冷たい肌の下の熱い血潮を感じるからこそ、劉唐は公孫勝に惹かれるのだった。
劉唐は立ち上がると稽古場の中央に立つ。今度は劉唐が舞う番だった。公孫勝の眼差しが鋭くなる。この眼差しに適う舞を舞えるか。体中に緊張が走る。胃が絞られるようだ。けれどこの緊張感が劉唐は嫌いではなかった。呼吸を整えて背筋を伸ばす。
稽古場を一歩出れば、まったく違う世界が広がっている。着物を着ることもなく、扇を持つこともない。制服に身を包んで、学校へ通う。髪が赤いせいで、劉唐はチャラいとさえ思われていた。
学校には友人もいるし、楽しい。学校に通いながら稽古を続け、かつ公孫勝について行くのはきつい。それでも、一度は捨てたこの場所が、今の劉唐の居場所だ。二度と離れることなど思いもよらない。公孫勝が舞い続ける限り、劉唐も舞い続ける。
かつては公孫勝もこの世界から遠ざかるのだろうと決めてかかっていた。けれど公孫勝は舞を捨ててはいなかった。捨てられるはずがないのだ。
再び舞台に戻った公孫勝の舞を、劉唐は思い浮かべる。無垢な悦びに包まれた天女がそこにはいた。劉唐が知っていた、公孫勝という人物の印象からは程遠い。けれど間違いなく公孫勝の舞だった。両親を失い、自身も少なからぬ傷を追ったはずだ。けれど傷の痕跡など欠片も感じさせない。
どうして。
どうして悦びの舞など舞えるのか。涙が溢れて止まらず、公孫勝は舞台から離れては生きてゆけぬのだと理解した。そうして、自分も舞台に戻るのだと強く思った。
舞台の上では公孫勝は鬼神にも天女にもなる。その隣に立ちたいと強く願った。かつては狭い囲いの中に押し込められると感じた。けれど舞台には無限の世界が広がっている。
退屈な授業、放課後の他愛もない無駄話、部活動、ゲーム、流行りの音楽とファッション。女の子との恋。そんな何の変哲もない、けれどかけがえのない青春を犠牲にしても、惜しくないものがここにはあるのだ。