現ぱろ
「同居はじめました」
葉書に印刷した転居の知らせを渡すと、孔亮が「シネ」と呟いた。楊雄は無言だが、眼差しが冷たい。劉唐はへらりと笑う。なんと言われようと、どれだけ冷たい目で見られようと、劉唐は幸せだった。公孫勝との同居だ。嬉しくないわけがない。
「劉唐は勇気がある。と思う。俺はあの人と一緒には暮らせない」
楊雄が言った。言いたいことはなんとなくわかる。公孫勝は近寄りがたいオーラを放っている。そのうえ家事が得意ではない。やれと言われればできるのだろうが、その必要を感じないのだろう。食事も睡眠も平気で削る。家事と公孫勝の体調管理は劉唐の仕事になるだろう。
「先輩の足袋をくれたら許す」
孔亮は何が言いたいのか意味がわからない。
「劉唐はいいな……」
ぽつりと石秀が言う。劉唐は笑って石秀の髪をかき回した。
「稽古漬けだぞ」
楊雄が脅すように言う。それも承知のうちだった。公孫勝は稽古の鬼だ。
「稽古場のすぐ傍じゃないか」
葉書に印刷された地図を眺めて楊雄が眉をしかめる。
そもそも公孫勝が稽古場の近くに引っ越したいと言い出して、今回の同居が成立したのだ。この春、公孫勝は大学を卒業して、入れ違いに劉唐は大学に入学する。公孫勝はそれまでの学生寮を出ることになり、劉唐は実家を出て一人暮らしすることを考えていた。渡りに船だったと言っていい。公孫勝が目をつけた物件は一人暮らしには広く、その分家賃も高かった。一緒に暮らせば家賃は半分だと劉唐が言い、公孫勝が頷いたのだ。
「俺たちも稽古に呼ばれるのではないだろうな」
「さあ、どうだろうな。どちらかと言えば孤独な稽古を好む人だが、無様な舞を見せれば呼び出されるかもしれんぞ」
劉唐は意地悪くにやりと笑う。楊雄の眉間のしわが深くなった。公孫勝と劉唐はシテ方、楊雄と石秀はワキ方、孔亮は囃子方だ。違う役割の者同志が集まっての通し稽古は能ではあまりやらない。
「無駄な努力だ。劉唐があの人に敵うものか」
「そんなことはわかって」
「違う。そっちじゃない。下心がない、とでも言うつもりか」
孔亮の目がすっと細くなる。劉唐は顔をしかめた。
「下心だと」
「ないのか」
「ない」
「どうだか」
孔亮が鼻で笑う。むっとしたが拳を握り締めて耐えた。孔亮は少しおかしいのだ。公孫勝を天使かなにかだと思っているのではないかと感じることがある。
いわゆるイケメンである孔亮は女子にもてるのだが、それが逆効果になったのか男女間のことに潔癖だ。兄の孔明が女寄せに孔亮を連れまわすのも一因だろう。女を寄せ付けずストイックな公孫勝に心酔していて、公孫勝に近づくものには男女問わずいい顔をしない。
「男同士で不毛な会話はよせ。寒い」
楊雄がもっともな感想を述べた。楊雄はどこかで公孫勝を懼れている。懼れているが同時に抗いがたい魅力も感じているようだ。
石秀はじっと葉書を見つめている。石秀が公孫勝に向ける思いは劉唐のそれとよく似ているようだ。言葉や態度の端々から劉唐はそう感じる。ただ石秀は劉唐に比べると内にこもる性格で、そのせいか公孫勝は石秀にことのほか厳しい。それでも一心に公孫勝を慕う石秀を劉唐は弟のようにも感じていた。
「稽古のついででも、遊びに来い」
肩を叩くと石秀ははにかむように笑った。
ようは、四人が四人とも公孫勝に惹かれている。特別気が合うというわけでもないのに、気がつくと四人一緒にいることが多いのはそのせいだろう。
「あの男よりはおまえの方がましか」
ぼそりと孔亮が呟いた。劉唐は眉を上げる。あの男とは、林冲のことだろう。公孫勝よりもひとつ年上で、なぜか公孫勝と一緒にいることが多い。大学を卒業した後は、武術道場の師範代をしているらしい。ただ、そう実入りの良い仕事でもないらしく、バイト三昧だと笑っていた。
「あの人はいい人だぞ」
「粗野で俗だ。能のことなど何も知らないのだろう」
「だからいいと俺は思うがな」
公孫勝は能のこととなると寝食を忘れる。己のことにも世俗のことにも呆れるほど無頓着だ。外との繋がりはあった方がいい。
「俺はあの人に友人ができて、ほっとしている」
「保護者か、おまえは」
孔亮が呆れたように言う。劉唐は黙って肩を竦めた。劉唐は公孫勝の孤独を痛ましく思うが、孔亮はそれを好ましいと思っている。公孫勝の舞が美しいのは、公孫勝が孤独だからだと思っているのだ。
公孫勝は舞台の上では鬼神にも天女にもなる。だが舞台を降りればただの人だ。ただの人、なのだ。
「あの人にだって、人並みの青春があってもいいじゃないか」
「青春だと」
「おそろしく似合わないな、それは」
「楊雄まで孔亮の肩を持つのか」
「正直な感想だ」
「石秀、こいつらになんとか言ってやれ」
「そう言われても……」
「ここにあの人がいたら、こう言うだろう『そんな心配はおまえにしてもらうようなことではない。私の生き方は誰に強制されたものでもなく、自分で決めたものだ』とな」
孔亮が涼しい顔で言う。確かにいかにも公孫勝が言いそうな言葉ではあった。けれど劉唐は知っている。きっと公孫勝は目元だけでちらりと笑って劉唐を労わってくれるだろうことを。だが、意外と甘い公孫勝の一面など劉唐だけが知っていればいいことだ。孔亮などにわざわざ教えてやることもない。
「ふん。まあ、言っていろ。とにかく来月から俺はあの人と暮らすのだ」