【P4】泥む春【花主】
慣れた部屋は、とても居心地がいい。
床に座って凭れたソファの固い感触も、そこに腰掛けて本を読む鳴上の足が時折触れるのも、そこから伝わる体温も。
この部屋や、堂島家に満ちる空気が好きだ。
それは、この家の主である堂島さんや、菜々子ちゃんや、今や完全に家族の一員になった鳴上がつくり上げるものなのだろう。
だったら仕方ない。俺は、堂島家のみんなが好きなんだ。
相棒の部屋にある小さなテレビは昼過ぎのワイドショーを放送していて、最初こそ面白おかしいネタをやっていたが、今はよくわからない政治の話に変わっていた。
それをただ、ぼんやりと眺めながら、意識は全て、背後のソファに腰掛けている相棒へと向かっている。
「なぁ、悠」
「…んー? スナック菓子ならないぞ」
夢中になって読んでいるらしい上製本の表紙には『弱虫先生、最後の授業』と書かれている。
そういえば、ラストの新刊をまだ読み終わってないんだ、と言っていたことを思い出す。
「ちげぇ。喉渇かねぇ?」
「あ、ごめん、リボンシトロンでよかったら下から持ってくるけど」
「ああ、違う違う、俺は大丈夫。お前が、喉渇いてねぇの? って話」
そんな夢中になっててさ。
慌てて本から顔を上げ、腰を浮かせた相棒に、すぐさま制止の意味を込めた言葉を返すと、鳴上は笑って大丈夫、と言ってまた元通り腰を落ち着けた。
「…つまらないのか?」
「んー…ちょっと? 悠も構ってくんねぇし」
階下に菜々子ちゃんがいるとは言え、部屋には二人しかいない。
やっと訪れたイチャイチャタイムかと思いきや、鳴上はすぐに弱虫先生を開いてしまったので、仕方なしにテレビを見ていたわけだけど、それにも飽きた。
飽きた、というよりは、焦れた?
だってもっとイチャイチャしたい。触れたい、感じたい。
「なんだそれ」
クスクス笑いながら鳴上は開いていた本を閉じ、組んでいた足を解いてその間に俺を挟むようにして、ソファに王様のように座り直す。
「拗ねてんのか?」
「拗ねてなんかねぇ」
覗きこんできた薄い色の目をフイ、と躱して、鳴上の足に頬を擦り寄せた。
「陽介?」
布越しの鳴上の体温は、じんわりと温い。
室内は暖房が効いているお陰で暖かいけれど、それでも人肌の温もりが恋しい。
傍にいるのが想う人なら、余計に。
この寒さが和らいでくれば、もうすぐ、春が来る。
そうしたら、この温もりは遠く離れた場所へ旅立って、俺は鳴上の温度を思い出しながら、ひとり胸締め付ける思いに耐えなきゃいけない。
だからせめてそれまでの間は、ずっと。
触れていたい、感じていたい、溶け合いたい。
「どうした…? 陽介?」
少しだけ冷たい指先が、優しく髪を撫でていく。
「…なあ、悠」
「ん?」
離れていく、遠くなる。
離れていても大丈夫、心は繋がってるって信じてる。
それでも感じる寂しさと寒さは、どうやりすごせばいいんだろう。
どうしてもっと、ずっと、近くにいられないんだろう。
「なんで俺達、別々のいきものなんだろ」
こんなに近くにいるのに。
触れ合えるほど、傍にいるのに。
どうして俺達は、別々のいきものなのだろう。
いっそ、ひとつに混ざり合えたら、遠くなる怖さとか、離れる寂しさとか…そういうものを感じることなく、幸せなままでいられるのに。
「陽介…?」
屈み込み一層近付いた鳴上の気配に、そっと腕を伸ばして鳴上の頭を引寄せ、その唇にキスをする。
「んっ…、ふ」
無理な角度で屈んでいるせいで、いつもより呼吸に余裕のない鳴上が、湿った吐息を漏らす。
後頭部を抱える手を、そのまま項へ、そうして首の骨をなぞるようにして襟元へ。
「はっ、ダメ、だ…っ、ななこ、がいる」
緩んだ腕を振り解いて、鳴上がキスで蕩けた顔を上げた。
「菜々子ちゃん遊びに行くって言ってたじゃん」
「まだ下にいる」
「上がってこないだろ」
「ダメだ」
手にしていた本で頭を叩かれる。…弱虫先生、意外に痛いぞ。
「…ホント、どうした?」
いつもなら『痛ぇ!』とか騒ぐところが、ただ黙って叩かれた頭を押さえているだけの俺を、不思議に思ったらしい。
鳴上が明らかに怪訝そうに声を掛けてきた。
「いーや。やっぱ、菜々子ちゃんには敵わねぇな、と思ってさ」
「?」
「お前の『特別』は菜々子ちゃんだもんな。はー…どうやったら、お前の特別になれんのかなぁ」
溜息を吐いて、鳴上の膝に頭を乗せ、その足に腕を絡める。
本当は分かってる。
ちゃんと、俺はお前の特別だって。
だけど、何より優先されるものじゃないことも、わかってる。
「陽介」
少しの沈黙の後、鳴上が低い声で名前を呼び、その長い指に顎を捕らえられて上向かされる。
「な、に」
そうしてまた、キス。
噛み付くようなキスは、鳴上の温度を直接俺の内側へと浸み込ませていく。
このまま溶けちまえたらいいのに。
「…こういうことするのは、陽介だけだ。それでもお前が俺の特別だって、証拠にならない?」
唇を離した鳴上が、少し困ったような顔をして呟く。
知ってる、わかってる。でも。
「なる、よな…うん、なるんだよ。……なのに、どうして俺は、それだけで満足できないんだろな?」
「は? ちょ、おい…っ!?」
無防備になっている所に付け込むように、勢いよく立ち上がり、そのまま鳴上をソファへと押し倒した。
「ようす」
慌てる鳴上の唇を塞ぎ、言葉を奪う。
「だ、めだ…って、ようすけ…っ」
唇、顎、首筋、鎖骨。
鳴上の輪郭をなぞるようにキスを降ろしていくと、鳴上は色付きながらも制止する声を上げる。
「やだ。離れたくない。悠と溶け合いたい」
見上げる鳴上の瞳が、揺れる。
「―――好きだ、好きなんだ、悠」
捲り上げたシャツの裾から、手を忍ばせる。
「おい、ようすけ…っ」
焦る声を無視して、そのまま事を進めようとした時、背後で扉をノックする音が聞こえた。
『お兄ちゃん?』
ビクッ、と二人、肩を竦めて動きを止める。けれど扉が開く気配はない。
「…ど、どうした、菜々子?」
鳴上が少しどもりながら、平静を装って声を返すと、扉の向こうから可愛らしい声が掛けられる。
『菜々子、お友達のところに遊びに行ってくるね。陽介くんもごゆっくりー』
「あ、あ、うん、いってらっしゃいー、菜々子ちゃん」
「うん、気をつけて行くんだぞ」
『はぁい』
そうして軽快な足音が階段を降りていき、玄関の扉が閉まる音が聞こえるまで、二人でソファの上で固まったままでいた。
「…この、バカ」
「いてぇ!」
菜々子ちゃんが出掛け、家内がシンと静まり返ってから、鳴上が頭と胸を拳骨で軽く殴った。
「何悩んでるのか知らないけど、ああいうのはやめろ。菜々子に見られたらどうするんだ。お前が菜々子に嫌われるだけだぞ」
「うわ、それは嫌だ。……うん、ごめん」
誰より何より鳴上のことを好きだけど、可愛い菜々子ちゃんに嫌われるのは、やっぱりイヤだ。
―――そんな風に、俺にだって簡単に譲れないものがあるくせに。
素直に謝罪の言葉を口にすると、鳴上は頭をソファの肘掛部分に預けて、長い溜息を吐いた。
床に座って凭れたソファの固い感触も、そこに腰掛けて本を読む鳴上の足が時折触れるのも、そこから伝わる体温も。
この部屋や、堂島家に満ちる空気が好きだ。
それは、この家の主である堂島さんや、菜々子ちゃんや、今や完全に家族の一員になった鳴上がつくり上げるものなのだろう。
だったら仕方ない。俺は、堂島家のみんなが好きなんだ。
相棒の部屋にある小さなテレビは昼過ぎのワイドショーを放送していて、最初こそ面白おかしいネタをやっていたが、今はよくわからない政治の話に変わっていた。
それをただ、ぼんやりと眺めながら、意識は全て、背後のソファに腰掛けている相棒へと向かっている。
「なぁ、悠」
「…んー? スナック菓子ならないぞ」
夢中になって読んでいるらしい上製本の表紙には『弱虫先生、最後の授業』と書かれている。
そういえば、ラストの新刊をまだ読み終わってないんだ、と言っていたことを思い出す。
「ちげぇ。喉渇かねぇ?」
「あ、ごめん、リボンシトロンでよかったら下から持ってくるけど」
「ああ、違う違う、俺は大丈夫。お前が、喉渇いてねぇの? って話」
そんな夢中になっててさ。
慌てて本から顔を上げ、腰を浮かせた相棒に、すぐさま制止の意味を込めた言葉を返すと、鳴上は笑って大丈夫、と言ってまた元通り腰を落ち着けた。
「…つまらないのか?」
「んー…ちょっと? 悠も構ってくんねぇし」
階下に菜々子ちゃんがいるとは言え、部屋には二人しかいない。
やっと訪れたイチャイチャタイムかと思いきや、鳴上はすぐに弱虫先生を開いてしまったので、仕方なしにテレビを見ていたわけだけど、それにも飽きた。
飽きた、というよりは、焦れた?
だってもっとイチャイチャしたい。触れたい、感じたい。
「なんだそれ」
クスクス笑いながら鳴上は開いていた本を閉じ、組んでいた足を解いてその間に俺を挟むようにして、ソファに王様のように座り直す。
「拗ねてんのか?」
「拗ねてなんかねぇ」
覗きこんできた薄い色の目をフイ、と躱して、鳴上の足に頬を擦り寄せた。
「陽介?」
布越しの鳴上の体温は、じんわりと温い。
室内は暖房が効いているお陰で暖かいけれど、それでも人肌の温もりが恋しい。
傍にいるのが想う人なら、余計に。
この寒さが和らいでくれば、もうすぐ、春が来る。
そうしたら、この温もりは遠く離れた場所へ旅立って、俺は鳴上の温度を思い出しながら、ひとり胸締め付ける思いに耐えなきゃいけない。
だからせめてそれまでの間は、ずっと。
触れていたい、感じていたい、溶け合いたい。
「どうした…? 陽介?」
少しだけ冷たい指先が、優しく髪を撫でていく。
「…なあ、悠」
「ん?」
離れていく、遠くなる。
離れていても大丈夫、心は繋がってるって信じてる。
それでも感じる寂しさと寒さは、どうやりすごせばいいんだろう。
どうしてもっと、ずっと、近くにいられないんだろう。
「なんで俺達、別々のいきものなんだろ」
こんなに近くにいるのに。
触れ合えるほど、傍にいるのに。
どうして俺達は、別々のいきものなのだろう。
いっそ、ひとつに混ざり合えたら、遠くなる怖さとか、離れる寂しさとか…そういうものを感じることなく、幸せなままでいられるのに。
「陽介…?」
屈み込み一層近付いた鳴上の気配に、そっと腕を伸ばして鳴上の頭を引寄せ、その唇にキスをする。
「んっ…、ふ」
無理な角度で屈んでいるせいで、いつもより呼吸に余裕のない鳴上が、湿った吐息を漏らす。
後頭部を抱える手を、そのまま項へ、そうして首の骨をなぞるようにして襟元へ。
「はっ、ダメ、だ…っ、ななこ、がいる」
緩んだ腕を振り解いて、鳴上がキスで蕩けた顔を上げた。
「菜々子ちゃん遊びに行くって言ってたじゃん」
「まだ下にいる」
「上がってこないだろ」
「ダメだ」
手にしていた本で頭を叩かれる。…弱虫先生、意外に痛いぞ。
「…ホント、どうした?」
いつもなら『痛ぇ!』とか騒ぐところが、ただ黙って叩かれた頭を押さえているだけの俺を、不思議に思ったらしい。
鳴上が明らかに怪訝そうに声を掛けてきた。
「いーや。やっぱ、菜々子ちゃんには敵わねぇな、と思ってさ」
「?」
「お前の『特別』は菜々子ちゃんだもんな。はー…どうやったら、お前の特別になれんのかなぁ」
溜息を吐いて、鳴上の膝に頭を乗せ、その足に腕を絡める。
本当は分かってる。
ちゃんと、俺はお前の特別だって。
だけど、何より優先されるものじゃないことも、わかってる。
「陽介」
少しの沈黙の後、鳴上が低い声で名前を呼び、その長い指に顎を捕らえられて上向かされる。
「な、に」
そうしてまた、キス。
噛み付くようなキスは、鳴上の温度を直接俺の内側へと浸み込ませていく。
このまま溶けちまえたらいいのに。
「…こういうことするのは、陽介だけだ。それでもお前が俺の特別だって、証拠にならない?」
唇を離した鳴上が、少し困ったような顔をして呟く。
知ってる、わかってる。でも。
「なる、よな…うん、なるんだよ。……なのに、どうして俺は、それだけで満足できないんだろな?」
「は? ちょ、おい…っ!?」
無防備になっている所に付け込むように、勢いよく立ち上がり、そのまま鳴上をソファへと押し倒した。
「ようす」
慌てる鳴上の唇を塞ぎ、言葉を奪う。
「だ、めだ…って、ようすけ…っ」
唇、顎、首筋、鎖骨。
鳴上の輪郭をなぞるようにキスを降ろしていくと、鳴上は色付きながらも制止する声を上げる。
「やだ。離れたくない。悠と溶け合いたい」
見上げる鳴上の瞳が、揺れる。
「―――好きだ、好きなんだ、悠」
捲り上げたシャツの裾から、手を忍ばせる。
「おい、ようすけ…っ」
焦る声を無視して、そのまま事を進めようとした時、背後で扉をノックする音が聞こえた。
『お兄ちゃん?』
ビクッ、と二人、肩を竦めて動きを止める。けれど扉が開く気配はない。
「…ど、どうした、菜々子?」
鳴上が少しどもりながら、平静を装って声を返すと、扉の向こうから可愛らしい声が掛けられる。
『菜々子、お友達のところに遊びに行ってくるね。陽介くんもごゆっくりー』
「あ、あ、うん、いってらっしゃいー、菜々子ちゃん」
「うん、気をつけて行くんだぞ」
『はぁい』
そうして軽快な足音が階段を降りていき、玄関の扉が閉まる音が聞こえるまで、二人でソファの上で固まったままでいた。
「…この、バカ」
「いてぇ!」
菜々子ちゃんが出掛け、家内がシンと静まり返ってから、鳴上が頭と胸を拳骨で軽く殴った。
「何悩んでるのか知らないけど、ああいうのはやめろ。菜々子に見られたらどうするんだ。お前が菜々子に嫌われるだけだぞ」
「うわ、それは嫌だ。……うん、ごめん」
誰より何より鳴上のことを好きだけど、可愛い菜々子ちゃんに嫌われるのは、やっぱりイヤだ。
―――そんな風に、俺にだって簡単に譲れないものがあるくせに。
素直に謝罪の言葉を口にすると、鳴上は頭をソファの肘掛部分に預けて、長い溜息を吐いた。
作品名:【P4】泥む春【花主】 作家名:葛木かさね