Agnus Dei
Agnus Dei
──目醒めよ、牡羊座……
気が付くと、シオンは闇の中を漂っていた。
上も下も判らぬ濃密な闇。流れていくとも沈んでいくとも知れぬ、奇妙な浮遊感。
(……私は死んだのではなかったか?)
風吹き荒ぶスターヒル──星々の凶兆──跪く双子座──心の臓を貫いた鈍い衝撃。
現世での記憶はそこで途絶えている。
(サガ──)
憎悪に染まる紅い目で、己を見上げた双子座。
だが彼への憎しみや恨みはなく、むしろ憐れみさえ感じた。
シオンが人にあるまじき歳月を生き抜いたのも神の意思なら、非業の死という形で248年の生涯を終えるのもまた、神の御心である筈だった。
所詮彼も、神々のはかりごとの道具の一つに過ぎないのだ──自分と同じように。
ならば。いかなる神が、今また自分を甦らせようというのか。
──我が為に目醒めよ、牡羊座。
耳ではなく、小宇宙に直接呼びかける声。
シオンが奉るべき女神のものではない。
昏く陰鬱なる──しかし、どこか甘やかな響き。
──甦りて余のしもべとならん。
「私が仕えるは女神ただお一人。それに、もはや牡羊座の名は私のものではない」
言い放ったシオンは、己の声がしわがれた老人のものではなく、若々しい青年のそれであることに気付いた。
──美しき黄金の牡羊座よ。そなたの顔には見覚えがある。過ぎし聖戦の折にも、そなたは余に拳を向けた。
(──ハーデス)
シオンは、禍々しくも貴なる闇の正体を悟る。
冥界の支配者──暗黒の衣をまとい、漆黒の髪と目を持つ、死の国の王。
──神に刃向かった者の末路は、無論知っていような。その魂は未来永劫コキュートスで、苦しみ続けるがさだめ。
「ならば即刻、そのさだめ通り私を氷結地獄に堕とすが良い。聖闘士たる者、冥王に屈する膝など持たぬ」
──勇ましいことだ、牡羊座。
闇が嘲笑う。
──余が慈悲深くも、新しい生命と輝くような若さを与えてやろうと言うに、惜しげもなく振り捨てるか。
「──!」
蔓のように伸びてきた闇の触手が、シオンのまとう長衣の中に這い進む。
シオンは嫌悪感に身を震わせたが、指一本動かすことは叶わなかった。
──二百数十年など、神々にはほんの瞬きほどの時間に過ぎぬ。しかしそなたは人の身。醜く老いさばらえ、 やがては骨と朽ちゆく虚しさは、充分に知っておろう?
「かりそめの生命など……何の意味も持たぬ」
──偽りを申すな。
なめらかなビロードのような闇が、シオンの肌を愛撫する。
──ならば何故そなたは余の声に応えた、牡羊座よ。現世に何の未練も無くば、自ら目醒めることもあるまい。
「……あ……っ!」
シオンは唇をきつく噛み締め、上がる呼吸を抑えようとした。
処女神アテナの代行者として二百数十年聖域に君臨した自分が、妖かしの手管に屈するなど耐えがたかった。
しかし巧みに点された快楽のくすぶりは、次第に大きな焔となってシオンの体を蝕んでいく。
──牡羊座よ。そなたは何を思うて、人ならぬ時を生きた。死して尚、そなたを地上に繋ぎ止めんとするは何だ?
いにしえの時代、共に闘い、共に生き残った友がいた。
聖戦の終わりと同時に、傷を癒す間もなく、それぞれの使命に向けて別々の道を歩き出さねばならなかった。
もう同じ時は刻めぬと──生きている間は二度と会うことはないと知っていたが、それでも遠くお互いを感じているだけで良かった。
──目醒めよ、牡羊座……
気が付くと、シオンは闇の中を漂っていた。
上も下も判らぬ濃密な闇。流れていくとも沈んでいくとも知れぬ、奇妙な浮遊感。
(……私は死んだのではなかったか?)
風吹き荒ぶスターヒル──星々の凶兆──跪く双子座──心の臓を貫いた鈍い衝撃。
現世での記憶はそこで途絶えている。
(サガ──)
憎悪に染まる紅い目で、己を見上げた双子座。
だが彼への憎しみや恨みはなく、むしろ憐れみさえ感じた。
シオンが人にあるまじき歳月を生き抜いたのも神の意思なら、非業の死という形で248年の生涯を終えるのもまた、神の御心である筈だった。
所詮彼も、神々のはかりごとの道具の一つに過ぎないのだ──自分と同じように。
ならば。いかなる神が、今また自分を甦らせようというのか。
──我が為に目醒めよ、牡羊座。
耳ではなく、小宇宙に直接呼びかける声。
シオンが奉るべき女神のものではない。
昏く陰鬱なる──しかし、どこか甘やかな響き。
──甦りて余のしもべとならん。
「私が仕えるは女神ただお一人。それに、もはや牡羊座の名は私のものではない」
言い放ったシオンは、己の声がしわがれた老人のものではなく、若々しい青年のそれであることに気付いた。
──美しき黄金の牡羊座よ。そなたの顔には見覚えがある。過ぎし聖戦の折にも、そなたは余に拳を向けた。
(──ハーデス)
シオンは、禍々しくも貴なる闇の正体を悟る。
冥界の支配者──暗黒の衣をまとい、漆黒の髪と目を持つ、死の国の王。
──神に刃向かった者の末路は、無論知っていような。その魂は未来永劫コキュートスで、苦しみ続けるがさだめ。
「ならば即刻、そのさだめ通り私を氷結地獄に堕とすが良い。聖闘士たる者、冥王に屈する膝など持たぬ」
──勇ましいことだ、牡羊座。
闇が嘲笑う。
──余が慈悲深くも、新しい生命と輝くような若さを与えてやろうと言うに、惜しげもなく振り捨てるか。
「──!」
蔓のように伸びてきた闇の触手が、シオンのまとう長衣の中に這い進む。
シオンは嫌悪感に身を震わせたが、指一本動かすことは叶わなかった。
──二百数十年など、神々にはほんの瞬きほどの時間に過ぎぬ。しかしそなたは人の身。醜く老いさばらえ、 やがては骨と朽ちゆく虚しさは、充分に知っておろう?
「かりそめの生命など……何の意味も持たぬ」
──偽りを申すな。
なめらかなビロードのような闇が、シオンの肌を愛撫する。
──ならば何故そなたは余の声に応えた、牡羊座よ。現世に何の未練も無くば、自ら目醒めることもあるまい。
「……あ……っ!」
シオンは唇をきつく噛み締め、上がる呼吸を抑えようとした。
処女神アテナの代行者として二百数十年聖域に君臨した自分が、妖かしの手管に屈するなど耐えがたかった。
しかし巧みに点された快楽のくすぶりは、次第に大きな焔となってシオンの体を蝕んでいく。
──牡羊座よ。そなたは何を思うて、人ならぬ時を生きた。死して尚、そなたを地上に繋ぎ止めんとするは何だ?
いにしえの時代、共に闘い、共に生き残った友がいた。
聖戦の終わりと同時に、傷を癒す間もなく、それぞれの使命に向けて別々の道を歩き出さねばならなかった。
もう同じ時は刻めぬと──生きている間は二度と会うことはないと知っていたが、それでも遠くお互いを感じているだけで良かった。