Agnus Dei
──誰を思うておる、牡羊座。その者を思い、幾たびもこうして自分を慰めたか?
「は……っ──やめ……!」
敏感な場所を嬲られ、シオンは自由にならない体を仰け反らせた。
肉体の欲望など、忘れて久しかった。
若くして教皇の座に就いたシオンだったが、激烈なる聖戦の記憶とそれに続く再建への使命は、彼の心身を堅く縛った。
未来を彼に託し、死んでいった多くの同胞。
地上を頼むと言い遺して決戦に赴き、還らなかった女神。
遠い東の国でただ一人、持ち場を守り続ける友。
それらの思いに応える為に、シオンは自分に僅かばかりの安寧すら許さなかった。
昼は政務に追われ、夜は聖戦で破壊されたあまたの聖衣の修復に当たった。
死んだ聖衣は、彼自らが血を与えて甦らせる。
聖域の文官達は皆、教皇の身を案じたが、シオンは苛烈なまでの精神力をもって自分を支え続けた。
ただ一日も早く、この廃墟を元の美しく秩序ある聖域に戻すことのみを目指し、気の遠くなるような歳月を重ねたのだ。
そんなある日、シオンは鏡の中に峻厳にして冷徹な顔をした初老の男を見出す。
かつて友が「美しい」と賞賛した顔を仮面で覆ったシオンは、以来人前に素顔を晒すことはなかった。
──可哀相な牡羊座。
闇は憐れむように囁いた。
──いかに強がろうともそなたは人の子だ。人の心の弱さや、愚かさからは逃れられぬ。
「……黙、れ……!」
朦朧とした意識の中で、シオンはかぶりを振った。
否定したいのは冥王の言葉か。それとも快楽に墜ちていく我が身か。
──何を躊躇う。今ここで余の言葉を受け容れれば、そなたの切なる望みが叶うというのだ。
「……黙れ、ハーデス……!誰がお前などに……」
搾り出すようなシオンの声に、慟哭が混じる。
心の奥底を暴かれる痛みと屈辱に、涙が滲んだ。
もう一度逢いたかった──一目、彼に。
小柄だが、彼を育んだ悠久の大地のように大らかな男だった。
公明正大で、その宿星に相応しい戦士だった。
若い獣のように喧嘩を繰り返してはじゃれ合う二人を、女神も時の教皇も、そして戦友達も温かく見守ってくれた。
二度と戻らぬ日々──
『さばらじゃ、シオン──』
『……私より先に死ぬことは許さぬ。これは、教皇命令だ』
『なかなかに貫禄が出てきたではないか。その法衣、よう似合っておるよ』
聖衣の箱を背負い、廃墟の中を東に旅立っていった青年の後ろ姿。
それが今生の別れとなった。
もしも──もしも今一度、彼に逢えるものならば──
──牡羊座。神に捧げられし黄金の羊よ。今こそ人としての生を取り戻せ。新たな生命と若さを手にし、そなたが封じた思いを解き放つが良い。
「う……あ、ああっ……!」
身を引き裂かれるような苦痛──そして、悦楽。
闇に全身を絡め取られ、何も判らなくなる。
血を吐くように、シオンは絶叫した。
「ああ……童虎……──!!」
微かにハープを爪弾く音が流れてくる。
物悲しくも、何処か懐かしい調べ。
我に返ったシオンは、自分の両足がしかと硬い床を踏みしめていることを知った。
一条の淡い光が、目の前に置かれたオブジェを照らし出す。
「これは……──」
見慣れた筈の流線型のフォルム──天翔る牡羊座。
ただしそれは、目にも眩い黄金色ではなく、昏き闇色の死装束。
軽く手を触れると、かりそめの冥衣はそれでも主を認識したのか、黒い焔となってシオンの全身を包んだ。
(今の私には似合いだ──)
シオンは端正な唇を皮肉に歪めた。
教皇自ら冥王の走狗となって聖域に舞い戻る──そんな醜悪な笑劇(ファルス)に相応しい衣装だ。
それでも。
(役者は役者らしく、最後まで演じ切らねばなるまい)
この偽りの生命が潰える、その時まで。
マスクを手にしたシオンの前で、闇の扉が重々しい音を立てて左右に開いていく。
射し込んで来る薄明かりの向こうに、見覚えのある者達が同じく黒き冥衣をまとって跪いていた。
「──教皇。ご指示を──」
己を見上げる双子座の姿に奇妙な既視感を覚えながら、シオンは頷いた。
「これより聖域に向かう。目指すは女神のお命、唯一つ。邪魔立てする者は、容赦なく打ち果たせ!」
鞭のように鋭い声が一同を打ち据え、かつての黄金聖闘士達は皆、無言で頭を垂れた。
(……童虎よ──)
シオンは、胸の中でそっと呟いた。
(こんな形で相まみえることを、お前は決して望みはしないだろうが──)
逆賊の証を身にまとった自分を見て、怒り、嘆くだろう。
しかし。
(塵と消えゆく最後の瞬間まで見届けてやる)
お前が導く、次代の若き聖闘士達の闘いを。
私が護った聖域を。
共に愛した、この地上の全てを。
(そして何より、お前の姿を──)
しかとこの目に焼き付けよう。
今、紅き月が昇る──
FIN
Agnus Dei/生贄の羊
2012/2/28 up