彼方の光
「──今日は、お別れに来ました」
私がそう告げると、その人は
「行くのかね」
とだけ言い、何処へ、何をしに行くのか、と言うようなありふれた質問はしなかった。
だが、これまで私のことをただ『子供』としか呼んでこなかったのに、
「女神のご加護が君にあるように──牡羊座の子よ」
私の宿星を初めて口にしたその声音に、幾らかの優しさが込められているような気がしたのは、私の思い過ごしだったのだろうか──
彼方の光
私はインドと中国の国境付近、秘境・ジャミールで生まれた。
早くに両親を亡くし、一族の長である祖父の元で育てられたが、祖父の話によれば私達のご先祖は前聖戦の生き残りだったらしい。
二百数十年前のその時にはここも戦場となり、伝説の箱舟を巡って冥闘士との間で激闘が繰り広げられたのだと言う。
ジャミールの民はその多くが特殊能力に秀で、神話の時代から幾人もの聖闘士や修復師を輩出してきた。
物心つく頃までには私もある程度の超能力を使いこなせたし、またいずれは一族に伝わる聖衣修復の技術も学ぶ予定だった。
この世に生を受けた時、夜空のハマルが一際輝きを増したことから、私は牡羊座の宿星を背負う子供として育てられてきた。
いずれは聖域で先代の牡羊座である教皇様から直々に教えをたまわることになろう、それまで小宇宙の鍛錬を怠ってはならぬ、と言うのが幼少より祖父の口癖である。
この里で唯一の古い石造りの塔は、通称「長の館」と呼ばれており、祖父はそこで破損した聖衣の修復を行っていた。
工房には私も自由に出入りしていたが、五層からなる塔の一番上の間にだけは行ったことがなかった。
何故なら、階段が途中で途切れていたからだ。
そこだけ新しい石が積まれた壁の跡が示す通り、最上階は一度──恐らくは戦闘で──
吹き飛んだのだろう。
ご先祖は外観だけを元の姿に戻し、階段は敢えて塞いだままにした。
無論テレポーテーションで移動すれば良いことだし、誰かに出入りを禁じられた訳でもない。
だが、子供心にもそこは無闇に立ち入ってはならない場所のように思えたのだ。
あの部屋でかつて何があったのか、私は知らなかったけれど──
ある日の夕暮れ、ちょうど昼と夜とが入れ替わる黄昏時だった。
村外れの修行場から一人で家に戻る途中、何気なく暮れなずむ空を仰いだ私は、長の館の最上階にキラリと光る金色の輝きを見たような気がした。
畏怖の気持ちは依然あったが、今日は何故か好奇心の方がそれに勝った。
しばしの躊躇いの後、私は思い切って塔の最上階に瞬間移動した。
初めて足を踏み入れた室内は薄暗く、がらんとしていて、空っぽで、埃っぽかった。
目を引くような金色の輝きは何処にもなく、私は自分の目の錯覚だったのか、と落胆し
たその時。
「──何用かな、子供」
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか、見たことも無い青年が結跏趺坐を組んで床に座していた。
目を閉ざしたままのその顔は静謐に満ち、この世のものとは思えないほど美しい。
そう──確かに彼からは、「この世のものならぬ」気配がした。
一族の血がなせる業(わざ)か。
或いは、持ち主の思念が宿ると言われる聖衣を、身近に見ながら育ったせいだろうか。
私は人の見えざるものを視ることがたびたびあった。
これほどまでに強大な小宇宙を感じたのは、生まれて初めてだったが。
「……貴方は、誰ですか……?」
「今の私は、君の感じた通りこの世のものならぬ存在。それ以上でも以下でもない」
彼がその身に纏うのは、目にも眩い黄金の鎧。
直接見たことはなかったが、私の記憶に間違いがなければ、それは聖域に安置されているという伝説の黄金聖衣だ。
ショルダーが大きく張り出した、直線的にして優美とも言えるフォルムは、確か乙女座の聖衣──
だが前聖戦において、生き残った黄金聖闘士は牡羊座と天秤座の二人だけだった。
以降、乙女座は二百数十年ずっと空位のままである。
ならば目の前にいるこの人はやはり実体ではないのだ、と悟ったが、不思議と怖いという気持ちは起きなかった。
「……ほう、恐れぬか。さすがはジャミールの子よ」
──それが、彼と私との出会いだった。
私は修行の合間を縫って、たびたびあの部屋を訪れた。
無駄足になる日も多かったが、それでも時折、彼は気紛れのように私の前に姿を現した。
生まれてこのかた一度もジャミールを出たことがない私には、聞いてみたいことが山のようにあった。
外の世界のこと、聖域のこと、そして前聖戦のこと──
もっとも、彼の語る世界は観念的かつ抽象的過ぎて、子供には到底理解しえるものでは
なかったが。
触れることは叶わなくても、私はただ彼の声を聞き、その清廉な美貌を見るだけで満足していた。
自然の色彩が豊かとは言えぬこの地において、彼の存在は唯一の眩しい光だった。
「──教皇であらせられる先代の牡羊座様は、ジャミールのご出身なのです。どのようなお方だったのでしょう?」
「シオンか……さあ、良く判らぬ。私は元々他人にさほど関心がなかったのでな」
にべもなくそう答えつつも、彼は何かを思い出したかのように付け加えた。
「シオンは血気盛んで、いささか無鉄砲なところがあった。君とはあまり似ていないよ
うだ」
「……そうですか……」
「君は幼いながらも思慮深く、感情を理性で抑える術を知っている。むしろ、先の教皇
に似ているやもしれぬな」
祖父の書庫には、聖戦の歴史が綴られた古い文献があった。
そこには、同じくジャミール出身の先の教皇セージ様のことは勿論、先代の乙女座の聖闘士についても記されていた。
前聖戦の序盤において、盲目の乙女座は冥王軍の魂を封じる数珠を完成させる為、己の全小宇宙を極限まで燃やし尽くして消滅したと言う。
そして、その最期の地はここ、ジャミールであった、と──
「木欒子の数珠は、聖戦の後どうなったのですか?」
「ひとたびの役目を終え、女神より童虎が封印のお役目を賜った。来たるべき時が来れば、またあれを揮う者の手に託されよう」
彼が命と引き換えに精製したその数珠が、私に託される日は来るのだろうか、とふと思った。
私がそう告げると、その人は
「行くのかね」
とだけ言い、何処へ、何をしに行くのか、と言うようなありふれた質問はしなかった。
だが、これまで私のことをただ『子供』としか呼んでこなかったのに、
「女神のご加護が君にあるように──牡羊座の子よ」
私の宿星を初めて口にしたその声音に、幾らかの優しさが込められているような気がしたのは、私の思い過ごしだったのだろうか──
彼方の光
私はインドと中国の国境付近、秘境・ジャミールで生まれた。
早くに両親を亡くし、一族の長である祖父の元で育てられたが、祖父の話によれば私達のご先祖は前聖戦の生き残りだったらしい。
二百数十年前のその時にはここも戦場となり、伝説の箱舟を巡って冥闘士との間で激闘が繰り広げられたのだと言う。
ジャミールの民はその多くが特殊能力に秀で、神話の時代から幾人もの聖闘士や修復師を輩出してきた。
物心つく頃までには私もある程度の超能力を使いこなせたし、またいずれは一族に伝わる聖衣修復の技術も学ぶ予定だった。
この世に生を受けた時、夜空のハマルが一際輝きを増したことから、私は牡羊座の宿星を背負う子供として育てられてきた。
いずれは聖域で先代の牡羊座である教皇様から直々に教えをたまわることになろう、それまで小宇宙の鍛錬を怠ってはならぬ、と言うのが幼少より祖父の口癖である。
この里で唯一の古い石造りの塔は、通称「長の館」と呼ばれており、祖父はそこで破損した聖衣の修復を行っていた。
工房には私も自由に出入りしていたが、五層からなる塔の一番上の間にだけは行ったことがなかった。
何故なら、階段が途中で途切れていたからだ。
そこだけ新しい石が積まれた壁の跡が示す通り、最上階は一度──恐らくは戦闘で──
吹き飛んだのだろう。
ご先祖は外観だけを元の姿に戻し、階段は敢えて塞いだままにした。
無論テレポーテーションで移動すれば良いことだし、誰かに出入りを禁じられた訳でもない。
だが、子供心にもそこは無闇に立ち入ってはならない場所のように思えたのだ。
あの部屋でかつて何があったのか、私は知らなかったけれど──
ある日の夕暮れ、ちょうど昼と夜とが入れ替わる黄昏時だった。
村外れの修行場から一人で家に戻る途中、何気なく暮れなずむ空を仰いだ私は、長の館の最上階にキラリと光る金色の輝きを見たような気がした。
畏怖の気持ちは依然あったが、今日は何故か好奇心の方がそれに勝った。
しばしの躊躇いの後、私は思い切って塔の最上階に瞬間移動した。
初めて足を踏み入れた室内は薄暗く、がらんとしていて、空っぽで、埃っぽかった。
目を引くような金色の輝きは何処にもなく、私は自分の目の錯覚だったのか、と落胆し
たその時。
「──何用かな、子供」
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか、見たことも無い青年が結跏趺坐を組んで床に座していた。
目を閉ざしたままのその顔は静謐に満ち、この世のものとは思えないほど美しい。
そう──確かに彼からは、「この世のものならぬ」気配がした。
一族の血がなせる業(わざ)か。
或いは、持ち主の思念が宿ると言われる聖衣を、身近に見ながら育ったせいだろうか。
私は人の見えざるものを視ることがたびたびあった。
これほどまでに強大な小宇宙を感じたのは、生まれて初めてだったが。
「……貴方は、誰ですか……?」
「今の私は、君の感じた通りこの世のものならぬ存在。それ以上でも以下でもない」
彼がその身に纏うのは、目にも眩い黄金の鎧。
直接見たことはなかったが、私の記憶に間違いがなければ、それは聖域に安置されているという伝説の黄金聖衣だ。
ショルダーが大きく張り出した、直線的にして優美とも言えるフォルムは、確か乙女座の聖衣──
だが前聖戦において、生き残った黄金聖闘士は牡羊座と天秤座の二人だけだった。
以降、乙女座は二百数十年ずっと空位のままである。
ならば目の前にいるこの人はやはり実体ではないのだ、と悟ったが、不思議と怖いという気持ちは起きなかった。
「……ほう、恐れぬか。さすがはジャミールの子よ」
──それが、彼と私との出会いだった。
私は修行の合間を縫って、たびたびあの部屋を訪れた。
無駄足になる日も多かったが、それでも時折、彼は気紛れのように私の前に姿を現した。
生まれてこのかた一度もジャミールを出たことがない私には、聞いてみたいことが山のようにあった。
外の世界のこと、聖域のこと、そして前聖戦のこと──
もっとも、彼の語る世界は観念的かつ抽象的過ぎて、子供には到底理解しえるものでは
なかったが。
触れることは叶わなくても、私はただ彼の声を聞き、その清廉な美貌を見るだけで満足していた。
自然の色彩が豊かとは言えぬこの地において、彼の存在は唯一の眩しい光だった。
「──教皇であらせられる先代の牡羊座様は、ジャミールのご出身なのです。どのようなお方だったのでしょう?」
「シオンか……さあ、良く判らぬ。私は元々他人にさほど関心がなかったのでな」
にべもなくそう答えつつも、彼は何かを思い出したかのように付け加えた。
「シオンは血気盛んで、いささか無鉄砲なところがあった。君とはあまり似ていないよ
うだ」
「……そうですか……」
「君は幼いながらも思慮深く、感情を理性で抑える術を知っている。むしろ、先の教皇
に似ているやもしれぬな」
祖父の書庫には、聖戦の歴史が綴られた古い文献があった。
そこには、同じくジャミール出身の先の教皇セージ様のことは勿論、先代の乙女座の聖闘士についても記されていた。
前聖戦の序盤において、盲目の乙女座は冥王軍の魂を封じる数珠を完成させる為、己の全小宇宙を極限まで燃やし尽くして消滅したと言う。
そして、その最期の地はここ、ジャミールであった、と──
「木欒子の数珠は、聖戦の後どうなったのですか?」
「ひとたびの役目を終え、女神より童虎が封印のお役目を賜った。来たるべき時が来れば、またあれを揮う者の手に託されよう」
彼が命と引き換えに精製したその数珠が、私に託される日は来るのだろうか、とふと思った。