螺旋
双子座の聖衣を拝命した頃から、おかしな夢にうなされるようになった。
夢の中の私は、双子の弟に魔拳を放ち、教皇暗殺の手駒にしようとしている。
血を分けた弟を意のままに操りながら、「二番目」「模造品」と蔑む私の、何とおぞましいことだろう。
悪魔に魂を売った私の拳は、遂に教皇の心臓を貫き……──
螺旋
己の悲鳴で飛び起きてみれば、そこはいつもと変わらぬ双児宮の寝室だった。
(違う……あれは私ではない。私は断じて、あのようなことを望んではいない!)
天窓から射し込む月の光に、双子座のパンドラボックスが妖しく輝く。
(双子座……お前なのか?この禍々しい夢の元凶は……)
聖衣には代々の主の記憶や思いが宿ると言われている。
悪夢が繰り返されるようになるにつれ、先の双子座がどのような人物だったのか知る必要があると感じた私は、聖域中の資料を漁った。
しかし、記されている内容はどれも同じだった。
前聖戦が起こる二年前、当時の双子座であったアスプロスが死亡し、双子の弟のデフテロスが跡を継いだのだ、と。
アスプロスの死因が何だったのかは、何処にも書かれていない。
敵と闘って死んだのなら、戦死と記せば良いものを。
公に出来ない理由があるのだと私は直感した。
双子は、女神の居城たるここ聖域の忌むべき暗部。
現に今も凶兆として、弟カノンの存在は無きもののごとく扱われているではないか。
アスプロスとデフテロスの兄弟に何が起こったのか、それを知る術が一つだけあることを私は知っていた。
教皇以外は何人たりとも立ち入ることを禁じられている、聖域で最も天に近い場所スターヒル。
そこには教皇しか目にすることの許されぬ、聖戦の黒い歴史や聖域の秘密が納められていると言う。
タブーを犯すことへの躊躇はあったが、夜毎自分を苛むものの正体を確かめたい一心で、私は遂に禁区に足を踏み入れた。
果たして、スターヒルの星見の館で目にしたものは、夢の中の惨劇と寸分違わぬ、闇に葬られた凄惨な記録だった。
かつて双子座の聖闘士アスプロスは、日陰の存在であった双子の弟デフテロスを魔拳で操り、教皇の座を手に入れようと目論んだ。
しかしその企みは露見し、謀反人として弟自らの手で討たれたと言う。
そして瀕死のアスプロスは魔拳を我が身に放って絶命し、冥闘士にその身を堕としたのだ、と──
(兄弟同士で殺し合うとは、何とおぞましい宿命だろうか……)
「──俺には魔拳など必要ないぜ」
驚いて振り返ると、自分と瓜二つの弟が入り口に寄りかかっていた。
「そんなもので操らなくとも、お前が一言やれと言ってくれればあんな老いぼれの一人や二人、簡単にあの世に送ってやる」
「カノン……どうして此処へ……」
「お前の考えることなんて何でもお見通しさ。何と言っても俺達は、元々は一つだったのだからな」
カノンは私の手から禁断の書を取り上げた。
「なるほど、詰めの甘い奴らだ。俺達ならもっと上手くやれるだろうに」
「黙れ、カノン。それ以上の冒涜は許さぬぞ」
「……それにしても、最後の最後で思わぬ伏兵がいた訳だ。乙女座に邪魔されるとは計算外だったようだな」
教皇の命を受けた乙女座が、兄の魔拳による洗脳からデフテロスを解き放ったという記述を目にしたカノンは、忌々し気に鼻を鳴らした。
「ふん。こいつを何とかしないと、先達の二の舞になりかねん」
「乙女座……」
私ははっとして、カノンの手からそれを奪い返す。
「貴様、シャカに何かしてみろ。ただでは済まさん!」
インドで見出だされた乙女座を、教育係として私が預かるようになって数週間。
過酷な生活を送ってきた少年は、恐ろしいほど生への執着が希薄だった。
強大な小宇宙を秘めているとは言え、如何にせんその器はまだ幼い子供でしかないのだ。
今はその死に絶えてしまったような感情を取り戻してやるのが先決と、細心の注意を払って接してきた。
それをカノンに滅茶滅茶にされては堪らない。
「随分ご執心のようだな、サガ。天下の双子座が、たかがガキ一人に振り回されているとはお笑い草だ」
「あの子はただの子供ではない。いつの時代も聖戦の鍵を握ると言われる乙女座だ」
「だったら尚更よ。いずれは先代同様、双子座(俺達)にとって厄介な存在になるのだとしたら、今のうちに芽を摘んでおいた方が得策だろう?」
「カノン、いい加減に……!」
「別に消せと言っている訳じゃない。こっちの邪魔をしないよう、手懐けてしまえばいいのさ。今ならお前の自由になるだろう?心も──体もな」
私はこの時、カノンを見限る決心を固めていた。
このまま弟を放置していたら、夢に出てきた双子座のあの惨劇が、再び繰り返されるような気がして恐ろしかった。
ただ──弟の言葉に暗示された歴史の可能性だけは、何故か完全に否定することが出来なかった。
もしもアスプロスが、教皇に先んじて乙女座を懐柔していたら。
聖戦の鍵を握ると言われる、七感を超えた力を手に入れることが出来たなら。
或いは、双子座の謀反は成功していたかもしれない。
そしてどういう因果か、今生の乙女座は、双子座である私の庇護下にあるのだ。
これは何の符号だろう。
私とて、聖闘士としての至高の地位を望んだことがない訳ではなかった。
無論、野心の為などではなく、謂れなき慣習に虐げられてきた弟の為だ。
いつか私が教皇の座に着くことが出来れば、双子座をカノンに譲位し、私達兄弟は揃って陽の当たる場所を歩めるかもしれないと──
そう願うのは、「悪」だったのだろうか……。
スニオン岬の岩牢に幽閉した弟の最後の呪詛と、己の野望に躓き、粛清されたアスプロスの断末魔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
日に日に輝きを増して行く射手座の友や、私を師とも兄とも慕う幼い後輩達と一緒にい
る時は、私は「私」でいられる。
ようやく私に笑顔を見せてくれるようになったあの子も、私を照らす光明だ。
しかし、光が強ければ強いほど闇もまたその濃さを増すのだということを、私は身をもって知った。
ひとたび私に巣食った闇はじわじわと触手を広げ、ともすれば意識を乗っ取ろうとする。
もう少し。今しばらくの辛抱だ。
女神が降臨すれば、きっとその偉大な力で私の闇も取り除かれよう。
女神よ、どうか私をお救い下さい──!
一縷の望みにすがって自己を保ってきた私は、誕生した女神がただの無力な赤子であったことに絶望した。
もはや誰も私を救えない。救いは何処にもない。
追い詰められ、闇に墜ちていったアスプロスの狂気が、今なら手に取るように判る。
次期教皇を射手座に、という教皇の言葉が決定的な引き金となって、私は血塗られた螺旋の迷路に第一歩を踏み出した。