わが手に夏を
高瀬先輩か、と問う仲沢の声はすでに自分と同じく中年男性のそれで、高瀬は思わずどなたさまですかと返しそうになった。高瀬の薄い記憶にあるその後輩の声は、多少耳に障る甲高いものと変声期を終えて驚くほど低くなった地を這うようなそれだ。電話機の向こうから聞こえてきたのはそのどれとも違う、酒とタールとで焼けた喉から出る声だった。おそらく、そうだ、仲沢も自分の声を聞いてそう思ったに違いない、と高瀬はふと思った。
あの定食屋での昼、熱気とかまびすしさでため息すら吐くそばから蒸発していくようなあの夏の日。定食屋のテレビで流れていた甲子園中継を見ながら、高瀬は高校時代の同輩か、後輩になにがなんでも連絡を取らねばと考えた。大学時代後半に野球と離れて以降、いや、進路が分かたれてから、高瀬は高校時代のしがらみとは距離をとりつつあった。親しかった同輩とあの人とでさえ。だから、その日、帰宅してから血走った目で封を切らずに放っておかれたOB会誌を探す高瀬に、妻も子供も奇異なものを見るような視線を寄越してきた。結局日付の変わる時分までかかって探し出されたOB会誌は更新日時が三年前のものだったが、高瀬には十分に思えた。いくら探しても、己の高校時代につながるようなものはそれ以外に出てはこなかったからだ。
ああ、そう、元気か、利央。ようやくその一言を絞りだすと、受話器の向こうで息の詰まる音がした。無様に五秒の間隔を置いて、仲沢はうなるような返事を寄越した。くぐもった声に、泣いているのかと、高瀬は言いそうになった。受話器の向こうにいるのは記憶の中にある後輩とは違う人物だと言い聞かせた。
ふとあの時代、同じようにして仲沢と連絡を取ったことがあったのを高瀬は思い出した。高瀬にとっての夏が終わった日、それ以降のことである。高瀬は虚無感にばかり襲われて部活に出なくなっていた。ホームベース後方にあの人が座ることはないのだとそう言い聞かせて、しかしもうそれだけで高瀬の腕は振れなくなった。それをこの後輩に言うのが辛かった。ましてあの人に知られるのが怖かった。
ふと目を落とすと、電話機の横、分厚い付箋のメモ用紙に四時駅前、と書いてある。妻の字であった。その下に買い物リストなのだろう、トマト、豚バラ、ブロッコリー、もやし、牛乳、トイレットペーパーと続いた。今日の夕食は野菜炒めだった。家事全般を背負っているにもかかわらず、文句一つ言わず嫌な顔一つ見せない妻とは連れ添ってもう二十年あまりが経とうとしていた。その間、高瀬は己が中学高校大学と野球をやってきたことはおくびにも出さなかったし、知らせる必要すらないとも思っていた。あの日々は、高瀬にとって大切な日々であるとともに、年を重ねるとともに忘れなければならないものでもあったのだ。それに触れることは、一種の禁忌だった。
そう思った途端、自分が今なにをしているのかを思い直して身震いを感じた。耳の奥で血液の流れる音がごうごうと響いていたが、肝心の仲沢の声はちっとも入ってこない。当たり障りのない返事をしながら高瀬は壁に手をついた。
河合先輩のことですか。
暗いトンネルから一気に視界が開けたかと思うと強烈な寒気が高瀬を襲った。
埃と汗臭い布団に体を転がして二段ベッドの裏の木目を数えた。既に同室の先輩の寝息が聞こえている。床に転がった時計を見るに、日付が変わって二時間あまりが経っていた。翌日の、といってももう今日になるが、朝練は六時からだ。今眠っておかないと痛い目にあうことは目に見えていた。
といって、投球練習ができる訳ではない。シーズン終了間際に痛めた肘のためにグラウンドの外野をずっと走る日々だ。ランニングのルートは既に芝がはげてしまっている。何人もの部員が走ってきた道筋である。走っている最中、目を落としているとどうにもできない寒気が高瀬を襲ってくるのだ。確かにこの道はこの大学の野球部員が、栄光のために努力してきた道筋だろう。しかし高瀬にはその先になにも見えない。この大学に入ってからずっとだ。怪我をしたためではない。
もしかしたら自分の進んだ道は間違っていたのではないかと思わなかった訳ではない。なぜ河合の後を追わなかったのかと問われれば、将来のためと言わざるを得なかった。東京R大学リーグの中でも強豪校からの誘いである。断る理由が思いつかなかった。少なくとも、追いかけたい先輩がいるなどと、親やツテを頼ってくれた監督、そして紹介された大学の野球部監督の前では口が裂けても言えなかった。
河合はT都リーグに所属する大学に進学している。リーグが違うため顔を合わせることは少なかった。それに、あの春からすっかり連絡は途絶えている。だが河合の噂はよく聞いている。二年目から正捕手をまかされ、それからチームは危ういながらも一部リーグにとどまっている。戦国T都を生き抜くことがどれほど凄いことか、R大学リーグに所属する高瀬には想像しかできなかったが、河合ならば当然だろうと思っている。
眠気がようやく額のほうからじわじわと降りてきたと思ったら、次の瞬間瞼を開けねばならないと首の後ろのあたりが言う。そんな調子で高瀬はずっと眠れずにいる。瞼を閉じれば河合の最後に見せた笑顔が貼りついて、高瀬のこめかみはひきつった。
準太。寝入っていたはずの先輩の声がした。そういえば随分前からいびきの音がしなくなっていた。高瀬はふと、自分の今までの息をのむ音や、うめき声などがすべてこの先輩に聞こえていたのではないだろうかと考え、怖気が背骨を駆け上がってくるのを感じた。ただの先輩ではない。チームの正捕手ではないにしろ、本格的に準太が投げ始めたときからバッテリーを組んでいる先輩である。歳は一つ上だが留年のために高瀬と同学年だった。
なんですか。声はかろうじて音をなした。すると、上のベッドから息のもれる音がした。お前、最近ぽつぽつ練習さぼってるだろ。無様に今までのうめき声だけでなくどんなことまでもお見通しだったことに、高瀬は乾いた笑いを漏らした。笑うそばから歯の根が震え、カチカチと鳴った。静まった寮部屋に、その音がやけに大きく響く。
さぼっていることがばれているのならば、当然高瀬がどこでなにをしているかも判っているのだろう。そして、その意味をこの先輩は計りかねているのだ。たださぼっているのならば、その旨を上に報告すればいい。ええ、ごめんなさい。上にはまだ言ってないから。本当に、すみません。お前、なんで。
高瀬は時折練習を抜け出し、練習着のままグラウンド近くの駅まで走り、その路線図を眺めてまた帰ってくる。外にランニングをしに出ていたのだと言えばそれで通るだろう。しかしこの先輩は、高瀬が路線図の前でなにをするともなく三十分もたたずんでいることを知っているのだ。そんな理由、言える訳がなかった。だから、ありのままに上に伝えてくれと高瀬は言った。
あの定食屋での昼、熱気とかまびすしさでため息すら吐くそばから蒸発していくようなあの夏の日。定食屋のテレビで流れていた甲子園中継を見ながら、高瀬は高校時代の同輩か、後輩になにがなんでも連絡を取らねばと考えた。大学時代後半に野球と離れて以降、いや、進路が分かたれてから、高瀬は高校時代のしがらみとは距離をとりつつあった。親しかった同輩とあの人とでさえ。だから、その日、帰宅してから血走った目で封を切らずに放っておかれたOB会誌を探す高瀬に、妻も子供も奇異なものを見るような視線を寄越してきた。結局日付の変わる時分までかかって探し出されたOB会誌は更新日時が三年前のものだったが、高瀬には十分に思えた。いくら探しても、己の高校時代につながるようなものはそれ以外に出てはこなかったからだ。
ああ、そう、元気か、利央。ようやくその一言を絞りだすと、受話器の向こうで息の詰まる音がした。無様に五秒の間隔を置いて、仲沢はうなるような返事を寄越した。くぐもった声に、泣いているのかと、高瀬は言いそうになった。受話器の向こうにいるのは記憶の中にある後輩とは違う人物だと言い聞かせた。
ふとあの時代、同じようにして仲沢と連絡を取ったことがあったのを高瀬は思い出した。高瀬にとっての夏が終わった日、それ以降のことである。高瀬は虚無感にばかり襲われて部活に出なくなっていた。ホームベース後方にあの人が座ることはないのだとそう言い聞かせて、しかしもうそれだけで高瀬の腕は振れなくなった。それをこの後輩に言うのが辛かった。ましてあの人に知られるのが怖かった。
ふと目を落とすと、電話機の横、分厚い付箋のメモ用紙に四時駅前、と書いてある。妻の字であった。その下に買い物リストなのだろう、トマト、豚バラ、ブロッコリー、もやし、牛乳、トイレットペーパーと続いた。今日の夕食は野菜炒めだった。家事全般を背負っているにもかかわらず、文句一つ言わず嫌な顔一つ見せない妻とは連れ添ってもう二十年あまりが経とうとしていた。その間、高瀬は己が中学高校大学と野球をやってきたことはおくびにも出さなかったし、知らせる必要すらないとも思っていた。あの日々は、高瀬にとって大切な日々であるとともに、年を重ねるとともに忘れなければならないものでもあったのだ。それに触れることは、一種の禁忌だった。
そう思った途端、自分が今なにをしているのかを思い直して身震いを感じた。耳の奥で血液の流れる音がごうごうと響いていたが、肝心の仲沢の声はちっとも入ってこない。当たり障りのない返事をしながら高瀬は壁に手をついた。
河合先輩のことですか。
暗いトンネルから一気に視界が開けたかと思うと強烈な寒気が高瀬を襲った。
埃と汗臭い布団に体を転がして二段ベッドの裏の木目を数えた。既に同室の先輩の寝息が聞こえている。床に転がった時計を見るに、日付が変わって二時間あまりが経っていた。翌日の、といってももう今日になるが、朝練は六時からだ。今眠っておかないと痛い目にあうことは目に見えていた。
といって、投球練習ができる訳ではない。シーズン終了間際に痛めた肘のためにグラウンドの外野をずっと走る日々だ。ランニングのルートは既に芝がはげてしまっている。何人もの部員が走ってきた道筋である。走っている最中、目を落としているとどうにもできない寒気が高瀬を襲ってくるのだ。確かにこの道はこの大学の野球部員が、栄光のために努力してきた道筋だろう。しかし高瀬にはその先になにも見えない。この大学に入ってからずっとだ。怪我をしたためではない。
もしかしたら自分の進んだ道は間違っていたのではないかと思わなかった訳ではない。なぜ河合の後を追わなかったのかと問われれば、将来のためと言わざるを得なかった。東京R大学リーグの中でも強豪校からの誘いである。断る理由が思いつかなかった。少なくとも、追いかけたい先輩がいるなどと、親やツテを頼ってくれた監督、そして紹介された大学の野球部監督の前では口が裂けても言えなかった。
河合はT都リーグに所属する大学に進学している。リーグが違うため顔を合わせることは少なかった。それに、あの春からすっかり連絡は途絶えている。だが河合の噂はよく聞いている。二年目から正捕手をまかされ、それからチームは危ういながらも一部リーグにとどまっている。戦国T都を生き抜くことがどれほど凄いことか、R大学リーグに所属する高瀬には想像しかできなかったが、河合ならば当然だろうと思っている。
眠気がようやく額のほうからじわじわと降りてきたと思ったら、次の瞬間瞼を開けねばならないと首の後ろのあたりが言う。そんな調子で高瀬はずっと眠れずにいる。瞼を閉じれば河合の最後に見せた笑顔が貼りついて、高瀬のこめかみはひきつった。
準太。寝入っていたはずの先輩の声がした。そういえば随分前からいびきの音がしなくなっていた。高瀬はふと、自分の今までの息をのむ音や、うめき声などがすべてこの先輩に聞こえていたのではないだろうかと考え、怖気が背骨を駆け上がってくるのを感じた。ただの先輩ではない。チームの正捕手ではないにしろ、本格的に準太が投げ始めたときからバッテリーを組んでいる先輩である。歳は一つ上だが留年のために高瀬と同学年だった。
なんですか。声はかろうじて音をなした。すると、上のベッドから息のもれる音がした。お前、最近ぽつぽつ練習さぼってるだろ。無様に今までのうめき声だけでなくどんなことまでもお見通しだったことに、高瀬は乾いた笑いを漏らした。笑うそばから歯の根が震え、カチカチと鳴った。静まった寮部屋に、その音がやけに大きく響く。
さぼっていることがばれているのならば、当然高瀬がどこでなにをしているかも判っているのだろう。そして、その意味をこの先輩は計りかねているのだ。たださぼっているのならば、その旨を上に報告すればいい。ええ、ごめんなさい。上にはまだ言ってないから。本当に、すみません。お前、なんで。
高瀬は時折練習を抜け出し、練習着のままグラウンド近くの駅まで走り、その路線図を眺めてまた帰ってくる。外にランニングをしに出ていたのだと言えばそれで通るだろう。しかしこの先輩は、高瀬が路線図の前でなにをするともなく三十分もたたずんでいることを知っているのだ。そんな理由、言える訳がなかった。だから、ありのままに上に伝えてくれと高瀬は言った。