わが手に夏を
高瀬が電話で手に入れた情報は、最低限のものだった。仲沢の、というより彼の兄に期待する気持ちで電話をかけたのだが、仲沢自身、兄とは疎遠になっているらしかった。高瀬は受話器を置いたあと、買い物リストの下に走り書きされた河合が監督を務める高校の名前、島崎の連絡先をじっと見つめた。その全部を今手にしているペンで塗りつぶしてしまいそうになる衝動をこらえ、メモ用紙の下半分を切り取って手の中に握りこんだ。
視線を感じ、電話から顔を上げると妻がキッチンでコーヒーをいれている。二人分のマグカップが用意してあった。高瀬はふと、電話をかけてから自分とこの世界が完全に切り離されていたことに気づきおののいた。妻はいつからあそこにいたのだろうかと、考えても考えても思い出せなかった。……キッチンのテーブルの上に今日の朝刊が置いてある。高瀬はテーブルにつき、スポーツ欄を開いた。プロ野球の結果に見開きが割かれ、その後ろの一面が高校野球に割り振られていた。昨日の結果が写真付きで報じられている。下の方に今日の試合の見所と称して各校の寸評が書かれていた。
びっくりした、どうしたの。高瀬は頷いただけで一心不乱に活字を追った。すでに一回戦は日程を終え、大会は二回戦に突入している。河合の監督する高校は出場三回目、その全てが河合が監督になってからのものなのかは判らなかった。一回戦では下位打線が振るわず苦戦、なんとかもぎとった一点を右腕エースの完封で守った。今回の相手校は投手がいいため、どう切り崩すか、エースがどこまで抑えられるかが鍵である。そう評してある。今日の結果がどうだったか、高瀬はどうにも思い出せなかった。思い出せるのはベンチ前で腕を組み戦況を見つめる河合の姿だ。
あなた、野球に興味なんかなかったのに。妻が高瀬の手元を覗きこんで言う。コーヒーの香りが鼻をくすぐった。高瀬は開かれた新聞の横に置かれたマグカップを持ち上げると、一口含んだ。
これでも高校球児だったんだ。小学校からリトルリーグで投げてて、中学高校とエースやって、……大学で肘と肩を故障して辞めちまったけど。高瀬は左手で額を覆った。ついに蓋を開けてしまった。言葉にしたそばから色あせた風景が次々と視界を埋める。しかし実感を伴わないままふわふわと浮いたままのセピアの写真は、念をこめれば一枚一枚たやすくぼろぼろと消えていった。その中で一枚だけ消えることのない写真がある。あのときの光景だと高瀬は思った。最後の、あのときである。
中学高校とずっとバッテリー組んでた先輩が、今野球部の監督になってるんだ。この高校の?……俺も今日、知った。いつもと同じように砂糖もミルクも入れていないブラックのコーヒーが今日はやけに喉を焼く。妻はひどく驚いた表情をしていたが、なにかを察したのか、すっと目を伏せた。なんておっしゃるの、その先輩。
封印していた名前だった。高瀬は喉からこみ上げてくるなにかをどうにか嚥下し、声帯を震わせた。か、……河合、和己先輩。
和さんと、昔のままの呼び方で呼ぼうとしている自分に動揺した。口の中でおそるおそる和さんと繰り返し、高瀬はとうとう額を両手で覆ってしまった。
目の前に散らつく光が、ペットボトルの中の水が街灯に反射しているものだと気づいたのは目を開けてどれくらい経ったときだろう。高瀬はゆっくりとペットボトルをつかんでいる手、腕、肩、頭へと視線を移動させていった。河合の破顔した顔が街灯に照らされているのを、そこでようやく高瀬ははっきりとした意識の中で知覚した。随分グロッキーだな、飲めないんだったら最初からそう言えよ。河合はミネラルウォーターのペットボトルを開封し、高瀬の口元に寄せた。飲んどけ、吐いてもいいから。そうして、高瀬は今の自分はたいそう酒臭い息を河合に吹きかけているだろうことに気づき、素早く体を離した。後ろについた手になまあたたかな土が触れ、爪の中に砂利が入りこむのを感じた。すんません。うん、いいから、水飲んで。汚れた手を服で拭い、高瀬はペットボトルに手を伸ばした。距離感がつかめず苦労する。やっとのことで口に流し込んだ水を、高瀬は飲みこむこともできずその場に吐き出した。飛沫が河合の靴を汚した。……すんません、俺、俺。うん、いいから。背中に手が伸びる。ゆっくりとさする手に泣きそうになりながら、高瀬は水を飲みこんでは吐きを繰り返した。ペットボトルが空になるのにそう長くはかからなかった。
大学の野球部寮に少ない荷物を運び終え、入学式や新歓コンパの類いもつつがなく終わった。河合から連絡があったのは四月の終わり、桜ももうほとんど散ってしまった頃だった。新入生の寮の門限は厳しいものだったが、同部屋になった先輩になんとか頼みこんで見逃してもらい、高瀬は河合の指定した店に走った。一つ足を動かすたびに踏みしめたアスファルトが心もとなく感じられ、俺はどうやら浮かれているようだと気づいたのは店員との簡単な会話さえおぼつかない自分と向き合ったときだった。
河合は店の奥の二人席で一人、ウーロン茶をすすっていた。酒は飲まないんですか。椅子を引きながら高瀬が問うと河合は、バカ、未成年のくせに、と言って笑った。俺はあんまり飲めないんだ、それに後輩の前でみっともないところ見せられないだろ。おしぼりを持ってやってきた店員にウーロン茶を注文するそばで、河合がメニューを取り出し手早く料理を決めた。
他愛ないおしゃべりの続いた後、不意に河合がどうだ、W大はやっぱり違うか、と訊いてきた。高校を出たての、ひょろひょろと縦にばかり長く骨と筋ばかりの高瀬の体は大学生の前ではまるで頼りなかった。エースをつとめるピッチャーのずっしりとした太ももを見てまず一番に、どうしたらそんな太ももになれるんですかと訊いた。監督の方針のとおりまず一年は体作りに努めるべきだと、言われるまでもなく高瀬は悟った。
でもお前、ちゃんと自主トレしてたろ、一回り肉ついた気がする。河合の言葉に高瀬はにやっと笑って、運ばれてきたウーロン茶に口をつけた。
それからどうなったか高瀬はまるで覚えていない。頭の芯がじんじんと痛んだ。右手のペットボトルはすでに空だ。傾けても一滴も出てきはしなかった。辺りに河合の姿がない。ペットボトルを足元に置き、首を垂れた。胃がビールの泡で重い。スニーカーは吐瀉物で汚れていた。ふと、自分のそれが河合の足元も汚していたことを思い出して高瀬は死にたくなった。
準太、ほら。頬にペットボトルが押しつけられた。高瀬は震える手でそれをつかもうとしたがかなわなかった。ひどい音をたててボトルは吐瀉物の上に落ちた。ああもう、しょうがねえなあ。涙腺がどうしようもなく緩んでしまったのは、その声音がかつてないほど優しく聞こえたからだった。本来であれば叱咤してもいいものを河合は飛び越えてしまう。悪いことではないと思う。しかし高瀬はそれのせいで勘違いをした。この人は全く変わってはいない。変質したのは自分自身であると、高瀬は目の前に突きつけられた現実に泣きそうになった。