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わが手に夏を

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 当たり前のことだが、スパイクや練習着の広げられたその一角に河合の影は微塵もなかった。最終学年になった高瀬らに後輩が贈ったものこそあれ、OBである河合から高瀬に贈るものなどなくて当然だ。それこそ、河合の手元にあってしかるべきものだった。少し考えて、高瀬はグラブの入った袋を手に取った。高速に乗る時間を考えると、ここでもたもたしている暇はなかった。
 ……高速を降りる手前のサービスエリアで高瀬は震える指先で携帯電話のボタンを押していた。左手には島崎が寄越したメモを握っている。時刻はすでに昼を回っていた。サービスエリアの食堂で簡単な食事を済ませ、熱い運転席で一息をついた。そうして、携帯電話を手に取ったのだった。コール音は数回。はい、河合ですと女性の声で応答があった。私、和己さんの高校時代の後輩で高瀬と申します、失礼ですが、和己さんは御在宅でしょうか。はいはいおりますよ、少し待ってくださいね、……もしかして、ピッチャーの高瀬さんかしら。呆然とした。数秒返答がなかったのを不審に思ったか、通話口からごめんなさい、違ったかしら、と声がする。高瀬はその声ではっと自分を取り戻し、空咳をした。確かに野球部の後輩で、在学時はピッチャーをしていたこと、河合とバッテリーを組んでいたことを伝え、長い間無沙汰をしていたことを詫びた。主人から、いろいろ聞いているんですよ。奥方はそう言って保留のボタンを押した。聞こえてくるユーモレスクにどうしようもなく望郷の念がこみあげる。熱せられた運転席がその瞬間に切り替わる。ふるさととは、野球部のグラウンドだ。あの、グラウンドだ。
 ユーモレスクが途切れる。高瀬の心臓が大きく波打った。数秒を待って、息を吸う気配がする。……準太か。
 その声を聞いて、自分が、年甲斐もなく泣いていることに気づいた。ええ、ええ、俺です、ご無沙汰してます、和さん。和さん、ともう一度高瀬は繰り返した。この瞬間、高瀬はあの呪詛の言葉で呪われていたのは自分自身であったと気がついた。河合を縛りつけた言葉で、まさしく自分自身も縛っていたのだ。




 河川敷に広がる運動場の駐車場に車を停め、指定された場所までぶらぶらと歩いた。煉瓦が敷かれた遊歩道を行く。時折ロードレーサーやジョギングをしている少年が高瀬を追い抜いていく。左手にはアスレチック施設や陸上トラック、テニスコートが広がる。気温の頂点を過ぎてもなお三十度を超えている昼間。高瀬の顎を汗が伝う。シャツはじきに汗で色を濃くした。十分ほど歩くと、運動場の端にダイヤモンドが広がる。緑のバックネットにはトンボが三本立てかけられ、内野の土には筋がうねった。その中心、マウンドに盛られた真っ黒な土をじっと高瀬は見つめる。そうして、ホームベースのあたりに目を移した。こちらに背を向けて、人影が蹲っている。来てしまったのだと高瀬は思う。
 中学も入れると六年間。実際には四年間、何球、河合の構えるミットにボールを投げこんだろう。河合がその心構えを教えてくれた。まっさらなマウンドは気持ちがいいだろう、だけどお前はその意味をよく考えなきゃいけない。少なくとも味方が点を入れるまでは最少失点に抑えること。味方が点を入れた次のイニングに点を取られないこと。守備のリズムを大切にするということ。
 小脇に挟んだグラブを手に取る。緩みかけたひもをきつく締め、左手にはめた。懐かしい感触だった。三十年だ。ボールを右手に握る。少し汗をかいた高瀬の右のてのひらに、灰色のボールがすっとなじむ。ストレート、スライダー、フォーク、シュート、そしてシンカー。ゆっくりと握りを確かめ、俺のシンカーはまだ曲がるだろうかと思う。マウンドの上で何千球と投げこんだ、あのボールの軌跡を思う。
 空気が少し黄みを帯び始めた。少し傾いたとはいえ未だ陽はその勢力を衰えさせてはいない。じっとりと、髪の生え際に汗が浮かぶ。ホームベースの人影は動かない。高瀬はその様子を、堤防の遊歩道からじっと見つめている。この堤防の草地を駆け下りるには、もう少し時間が必要だった。三十年の距離があと数分で縮まろうとする。そろそろと高瀬は一歩を踏み出す。
 準太、泣くなよ。
 すると、唐突に現れたパズルのピースが高瀬の胸を打った。あの夏、崩れ落ちそうな体を金網をつかんだ両手で支えて、高瀬は河合の顔を正面から見ていなかった。映像は己の靴と、河合のスパイクを映している。音声は自分の嗚咽で濁った。だが、河合はあのあと続けてなんと言った?
 約束しよう。いつか肩も肘も痛みがなくなったら、また昔みたいにキャッチボールから始めよう。だんだん距離を狭めていって、お前はマウンドの上から、俺はホームベースの後ろに座って、またキャッチボールしよう。握り方を忘れるなよ。俺もお前の球の感触をずっと覚えてるから。
 右手に持ったボールをぎゅっと握りしめ、すうと息を吸った。目が太陽にくらむ。柔らかな草を踏むと、密度の濃い空気がむっとにおった。これは、約束なのだ。呪いではない。よこしまな気持ちで放った、呪詛の言葉ではない。
 一歩一歩草地を踏みしめながら、高瀬は堤防下のダイヤモンドを見つめる。確かに俺は、和さんからしてみれば数あるピッチャーのうちの一人でしかなかったろう。だけど俺にとってあんたはかけがえのないキャッチャーだった。早い時期に河合と出会ってしまったことは確かに不幸だったかもしれないが、それを悲観することは今の高瀬にはできなかった。高瀬の根っこには、河合和己というキャッチャーが静かに息づいている。
 黒いマウンドが、白いホームベースがだんだんと近づく。堤防の坂に沿って、だんだんと駆け足になる。左手にグラブをはめ右手にボールを握りしめ、高瀬ははっはっと息を切らす。人影が動いた。もう顔だって判別できる距離だ。和さん、と呼びかけようとした声は無残にひび割れて、高瀬は笑ってしまう。三十年のうちに体はすっかりなまってしまったらしい。それでも、俺はこれからあの人と話をするのだ。あの日、食堂の昼、テレビ越しに見た野球部の監督と、真摯に野球の話をするのだ。
作品名:わが手に夏を 作家名:いしかわ