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わが手に夏を

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 いつかは来るだろうと思っていた。まだ体のできていない中学時代から変化球を投げ始めてしまった弊害だ。シンカーを覚えたのは高校時代だったが、それでもあの球が肘に負担のかかる球種であることに違いはない。しかし河合が投球を組み立てやすいようにと、意気込んでいろいろな変化球を試していたあの頃を眩しく思いこそすれ、後悔などとはとんでもなかった。
 その一言で、高瀬の言いたいことを察したのだろう。河合はそうか、と一言だけ呟いた。ふと自分が河合の後頭部を見下ろしていることに気づく。ネットの向こうとの段差も少しはあるようだが、大学に入ってもなお数センチと伸び続けた高瀬の身長は、いつの間にか河合を少しだけ追い抜いてしまったようだった。そう思うと肩を落として地面を睨んでいる河合の様子にひどくいたたまれない気持ちになり、高瀬はブルペンでシャドウピッチングをしているピッチャーに目をやる。いいスライダーですね。……お前と同い年だよ。
 視線に気づいたピッチャーが帽子に手をやり会釈をする。高瀬も頭を下げて返した。A大のエースは、和さんと同学年でしょう。シャドウピッチングを繰り返すしなる腕、そのてのひらから放たれるボールの軌跡を思う。河合もまたそのピッチャーの背中を見つめながら、ああ、と呟いた。今、ちょっと調子崩してるんだ、だからあいつに頑張ってもらわないと。……羨ましいな。口をついて出た言葉に、しかし高瀬は後悔をしなかった。こころからの言葉だった。弾かれたように高瀬に目をやる河合に告げる。
 覚えてますか、高校のあの最後の夏に俺が言ったこと。河合はゆっくりと首を縦に振る。今でもそう思ってます、もっと和さんと野球をしていたかった。
 しかしそれはもう叶うことはない。
 ネットに手をかけ、歯がゆい思いで高瀬は口を開いた。前髪が金属に擦られ、額の皮膚がよじれる。てのひらの肉に針金が食いこむ。ピッチャーの視線を感じたが知ったことではない。漏れ出た言葉は嗚咽を含んでいた。先程までの平坦な気持ちはいつの間にか消え失せて、波打つ心臓を高瀬はどうにか御さなければならなかった。あの春には一言だって言えなかった本音だ。だがここで言わずしてどこで言えというのだ。
 もっともっと野球をしていたかった、和さんとキャッチボールがしたかった、もっと、でも。ぎしぎしと金網を揺らせて、高瀬は鼻の奥が熱くなっていくのを感じている。こめかみがひどく熱い。
 お願いします和さん、俺はもう無理だから、俺の分まで野球を続けてください、和さんが野球を続けてさえくれれば、俺はそれで。……判ってるよという河合の声がした。高瀬はそうしてようやく顔をあげてまっすぐ河合の顔を見た。くちびるを真一文字に結んで、穏やかだが強い視線を高瀬に寄越す。うう、と高瀬は呻いた。困ったように河合が笑う。準太、泣くなよ。金網を握りしめて、高瀬はくちびるを強く噛んだ。そうしなければ、ぶるぶると震えるくちびるから情けない声が漏れてしまいそうだった。




 あれは呪いだった。高瀬から河合への、紛れもない呪詛の言葉だった。だから高瀬はあの夏の日、定食屋での昼、テレビの甲子園中継を見ながら血の引く思いでいた。何十年も前にかけた呪いが今もなお効果を発揮していることに眩暈を覚えた。どうにかせねばならぬと気は急くが、実際どうすればいいのかも判らなかった。呪いの解き方など高瀬は知らない。必死の思いで吐いた呪詛の言葉は、もはや高瀬の手を放れて河合を二重三重にも縛りつけている。
 ……甲子園は関西の有名校の優勝でその幕を閉じた。高瀬は整備された甲子園の芝がきらきらと光るのを、テレビを通して見守った。整列した球児達の足並みの、寸分違わず揃っているのを眩しく思った。あれからかき集めた新聞記事のスクラップを眺めながら、なにをしているのだろうと高瀬は思う。そうして、一つため息をついたあと車のキィを手に取った。妻に出かけると伝言を残す。……準さんか。ステアリングを握り進行方向の信号を見つめる高瀬の耳の内に、昨日の電話の仲沢の声が響く。
 いや、なんでもないことなんです、ただちょっと思い出したことがあって。高瀬は高校二年の夏、河合たち三年生の引退後に部の練習をさぼっていたことがある。それこそ、島崎に知られれば殴られることも覚悟していた。まさしく、河合ともうバッテリーを組むことはないという虚無感が高瀬をそうさせた。
 準さんは知らないだろうけど、あのとき和さんに相談したんですよ。準さんが部活に来てくれないって。俺はもう、そのときは受けるキャッチが俺だから、和さんじゃないから準さんがもう来てくれなくなったって焦っててね。それに、……俺はあんたに腹を立ててたんだ。三年生がいなくなって、まるで不幸の全部を背負いこんだ顔をしているあんたが憎らしくてならなかった。和さんがいなくなって悲しいのは、俺だけなんだっていうツラをしてるあんたが憎らしかった。だから、和さんに相談したんだ。そうしたら、和さんはなんて言ったと思いますか。
 ……仲沢のそういうところは嫌いではなかった。この男もまた、目標として河合を追いかけていたことに違いはないのだ。放っておけよ、もう少ししたらちゃんと帰ってくるから、今頃球が投げられなくてうずうずしてるかも知れねえぞって、そう言ったんですよ。ああ、と高瀬は呻いた。まさしくその通りに高瀬は野球部に戻ってきたのだった。復帰当初は厳罰としてチーム練習に加わることはできず、グラウンド外周を延々と走る日々だったが、それでも高瀬は生き返る思いだった。ボールを投げこんで、それが河合のミットでなくても、それはもう仕方のないことなのだと。だがいつかまた河合のミットに投げられる日々を思い描いて高瀬は野球に打ちこんだ。そんな日は、もう来なくなってしまうことなど微塵も考えずに。……利央、ごめんな。別に、もういいですよ、……あんたたちは、もうちょっと言葉で伝えあう努力をすべきだったんだ、いくらツーカーの仲だったって言っても、本当のところがちっとも伝わってなかったじゃないか。
 パパッと後ろからクラクションを鳴らされた。前方、信号はすでに青だ。高瀬はアクセルを踏みこみ、車をスピードにのせた。クラクションを鳴らしただろう後続車が高瀬の車を追い越していく。高校のものだろう、野球グラウンドを遠くに見た。夜間照明が昼間ではどこか居所なさげに佇んでいる。ナビに目をやりながら、目的地を探した。助手席には、色褪せた袋が置いてある。中にはあの時代のまま実家に捨て置かれたグラブが入っていた。型つけに挟みこまれたボールには、大学時代の仲間からの寄せ書きが書かれている。油性ペンで書かれていたはずの言葉はほとんどが滲んでしまい、もう判読できない。グラブと同様に、実家に置いてそのままになっていた品々は母親によってきちんと管理されていた。練習着など、当時は汗や泥に汚れて薄茶色のイメージしかなかったものは、真白に漂白され折り目をつけて保管してあった。ただ、グラブは手入れされず袋に入れたままにあった。編みこんだ革ひもが今にもちぎれそうになっている。貯めこんだ貯金に、両親からの援助をもらって買った代物である。確か、河合と仲沢とで買いにいったと記憶していた。
作品名:わが手に夏を 作家名:いしかわ