さよならメモリーズ
「だって、夜空は自己中でドSのくせにヘタレででもドSであたしの気に触ることばっかり言ってくるしすきあらば仲間外れにしようとするし口も悪いしひどい上から目線だし意地悪だし平気な顔で嘘吐いてあたしを騙すし」
言っているうちに2年足らずの日々を思い出しているのかヒートアップしてどんどん早口になっていく。
「すぐにあたしの弱みにつけこもうとするし善意でしてやることを無視するしそもそもせっかくあたしがあんたのレベルに合わせたてやろうとするのに拒否するしフィクションのなかとはいえあたしをレイプするし……ああ、もう!なんだかなおさらいらいらしてきたわ!」
「いらついているのはわたしのほうだ」
「えっ、なんでよ」
「説明が面倒だ」
それより。
肩をすくめた夜空は、密かに深く息を吸った。星奈の震えはまだこちらには伝わっていない。つまり夜空はまだ上位に立っている。
2年足らずの日々。
夜空は決して星奈と馴れ合ったつもりはないし、つれない態度を取ってきたことを後悔してもいなかった。上下関係を明らかにしてきたつもりでもあった(そもそも、星奈を隣人部に入部させてやったのが最大の譲歩だったと夜空は認識している)。星奈の気持ちをてのひらの上で転がして反応を見るくらいはしたけれど、その心地よさはただ夜空を刹那楽しませただけで、なにも心に残らずに去っていくものである。むきになって競いあった記憶も又然り、なにしろ、残るのはわたしなのだ、と夜空は自分に言い聞かせた。去っていくのは彼女のほうだ。だからいくら彼女が両足で地面をしっかり踏みしめていても、夜空が動揺する必要も、意味もない。
なるだけゆっくりと、ひとつひとつの単語を重視するように、けして言葉に詰まらないように台詞を発声していく。
「なら、何故お前はわたしと……その、メールなんてしたいと思ったんだ?」
短い沈黙のあとで星奈が顔を上げたとき、見開かれた大きな目には純粋な疑問の色が浮かべられていた。
きょとん、と擬音がつきそうな首の傾げ方をする星奈は、いままで身体を震わせていた事実などなかったかのように正面から夜空と目を合わせ、
「さっきも言ったじゃない。黙ってたら夜空はきっとあたしと連絡しなくなるだろうから」
「わたしはお前が嫌いだと言った。お前だってわたしにはいらいらするんだろう。ならばいかなる方法でも連絡を取る意味はどこにもないと思うが」
「だって、しないと夜空は干からびちゃうじゃない」
「……は?」
心から、夜空なりに重さをつけ足して放ったはずの言葉を彼女はいとも簡単に打ち返してみせた。
涙を浮かべても、夜空から目を逸らしてもいない。
「目に浮かぶようだわ。夜空は大学に入ってもきっと友達を作ることなんてできやしないの。話らしい話ができる相手といったら小鷹くらいのもの、教室でも最前列に座って、それで隣には誰も来ないんだわ。成績はトップクラスでも、ノートをコピーさせて欲しい、なんて聞かれることはまったくないの。良ければ孤高の美少女だとは呼ばれるかもしれないけど、悪かったら――」
「それが、お前とメールをすることで解決されるとでも?」
「勿論よ」
腕を組み胸を張った星奈はサクラの中の一本を見上げ、夜空から視線を逸らした。言葉の先を待つために唇に注目した夜空に見えたのは、小さく震える濡れた桃色だけだった。同じ色を限りなく薄めたようなサクラの花びらが、ときおり目の前をちらつく。金色の髪が風ではためく。どうしてか自分の前髪が気になって、指先でそっと掻き上げる。
「……分からない、な。永遠に分からないと思う」
「ええと、あんたがあたしを嫌ってるのは知ってる。あたしもあんたのことはだいっきらい」
「それは重畳だ」
「でも、あたしは夜空のこと、けっこうマシな人間だって知ってるのよ」
「マシ?」
「クラスの馬鹿な女子共に比べれば」
「比較対象が最悪だな」
「だって、間に挟むものがないんだもの」
星奈の頬がほのかに赤らんでいるのに気づいたのは、夜空自身も謂れのない気まずさにとらわれて一枚の花びらを目で追っているときだった。白い頬は血が上るとわかりやすく色を変える。慌てて自分の顔に手を当ててみて、小さく苦笑する。
「……ばかばかしい」
「……そうね、こんなの、ばかばかしいわね」
でもあたしはいつもとおり、あたしの正しさを確信しているわ。
顔を夜空から背けたまま言い切る立ち姿に近づくには三歩もかからなかった。
「おい、肉」
「なによ」
「メールしてやる」
「それは、さっき約束したでしょ。この一瞬で破ったとは言わせないわよ」
「ああ」
「返事、サボるんじゃないわよ」
「ああ」
「いまの返事みたいな、適当な返信は認めないから」
「ああ」
「呪いのメールも禁止!」
「ああ」
「……ねえ、夜空」
「なんだ」
顔が近いわ、と星奈が小さくつぶやく。生返事をして、ほとんど身体が触れんばかりの距離にまで近づくと、頬の赤みが増したのが分かった。
それからしばらく星奈はじっとしたままだったので、夜空は手持ち無沙汰に長い髪に何枚もくっついた花びらをひとつずつ丁寧に取り除いてやった。枝毛もなにもない艶々のロングヘアを羨ましくも妬ましくも思いながら、ときどき指先で梳くと星奈がくすぐったそうに瞼をきつく閉じた。
そしてまたほんのすこしだけ出会いの日を思い返した。完璧な姿形をしているとはそもそも知っていたし、遠慮なく他人の懐の内に近づいてしまおうとする態度、開けっぴろげで悪びれない、底抜けに明るい性格、どれも夜空にとってはやはり羨ましくも妬ましくもあったもので、そばに置いていても、全体で見れば不快なものではなかった。
やがて、髪を梳く指は濡れはじめた目元に自然と近づいていき、星奈は瞳を大きく見開き、青い目の中で夜空の影がふたつ揺らいだ。こんなに間近で見るのは勿論はじめてだった。とてもとても長い時間、同じ空間の中にいたのに。
「あたしは、案外あんたのこと――」
風が強く吹いた。
条件反射で夜空は瞼を閉じ、次に目を開けたとき、目の前にあったのは輝かんばかりのはにかんだ笑顔。
けれど聞き返しはしなかった。はじめから、どこかで結末を聞いてきたような気がしていた。
驚くべきことに、夜空は笑っていられた。