さよならメモリーズ
「ああ録音しておけばよかった、だって夜空がいいって、『いい』って、あーあ、なんで用意しとかなかったんだろう今日に限って、うん、今のうちにちゃんと脳内再生して、……うへへ、おじょうちゃんなにが『いい』のかなあ、ねえ、」
ほんのすこしあったかもしれない余韻が派手に吹き飛ぶ音がした。
「うわあああああ!!!」
「ひゃあっ?!」
「今日はもう解散だ、解散!」
ほうっておけばいつまでも小声で気色の悪い台詞を唱え続けそうだった星奈にたまらず夜空が声を上げる。肩を大きく跳ねさせた星奈が身体を震わせているうちに、傍観者モードに入っていた部員たちに振り返って叫ぶ。ふたたび顔に熱が上りつつあった。
「ほら、もうすぐ最終下校時刻になるだろう。お前らもさっさと帰れ!あと小鷹、お前は肉にあれ、渡してやれ」
「あ、ああ。……おい、星奈。お前これ忘れていったぞ」
「あっ!ありがとう小鷹。ええっと、その……なにか照れくさいわね……」
「当たり前のことだろ。それに見つけたのは俺じゃなくて夜空だしな」
「そ、そう……ええっと」
「先に言っておくが、こんなことで感謝されても困るぞ」
「べっべつにあたしはあんたに感謝してなんか」
立ち上がってお互いから距離を取りながらぎこちなく会話を交わす最上級生三人と、なんとなしに冷ややかな目でそれを眺める下級生たち。
と、不意に幸村が一歩進み出た。
「あの」
「ん?どうした幸村」
「あにき、よぞらのあねご、せなのあねご」
いつものメイド服で深々と一礼する。
「ごそつぎょう、おめでとうございます」
今度こそ本物の沈黙が部室に降りた。
返事に窮したわけではない。夜空はむしろ、新鮮な驚きにおそわれていた。先程までの星奈との言い合いはたしかに未来への約束だったのに、今はそれすら茶番に思えるほどの感情が心を揺れ動かしている。理科もおそるおそる同じ言葉を口にし、「やっぱりこれくらいは言いませんとね」と照れくさそうに苦笑い、小鳩は兄に近づいて袖を握りながらもこくこくと同意するように頷き、マリアがいつものように腐ったみかんだのなんだのと憎まれ口を叩いたので睨んでやると同じく小声で、
「おめでとうございます……あわわ」
それにみんなで小さく笑う。
みんなで。
自分はここからいなくなってしまうのだ、と思った。この心地良い場所は二度と戻ってこない。
(そう、たしかに、心地よかったはずだ――)
感じた途端に、夜空はいつものように真逆へと心を振り向かせた。冷笑的ないつもの自分を取り戻し、小さく咳払いをする。ばかばかしい、と心の中で唱える。ばかばかしい、ばかばかしい、ばかばかしい。小鷹は兎も角、こいつらにわたしが感情を動かされる所以なんてない。
小鷹が鼻を啜りあげている。星奈が情けなくうめき声を出して、ふたたび袖で顔を擦ろうとする。
だからわたしは、と夜空は自分に言い聞かせる。泣くもんか。いや、泣くことなんてありはしないのだ。だって、わたしは確かにこの瞬間を待っていたのだから。
「うむ。ありがとう」
満面の笑みを浮かべた。
*
聖クロニカ学園の正門から伸びる通学路は、市内のメインストリートのひとつにもなっている。ゆるやかに坂を下る道の両端には学園創立時に植えられたらしい立派なソメイヨシノが何本も続いていた。
今年のサクラは咲くのが早かった。そんなことを夜空が知っているのは、真っ先に進学先が決まり、ほとほと暇になった星奈が談話室でさんざん騒いでいたからだ。
(2月中には、すでに暖かかったしな)
思いながら見上げる桜並木は季節の印象を抜きにしても確かに綺麗だった。からっと晴れた薄い水色の空と白に近いピンク色の花びらの輪郭はほとんど溶け合っているように見えるくせに色同士が混ざり合うことはなく、下に視線を向ければ、黒に近い褐色の幹が視界全体を引き締めている。潔い、と言われることもあるのはたしかにその通りで、ピンク色のくせにやたら清潔感あふれる光景でもある。
と、その下に立つ自分すら「似合っている」かもしれないことに思い当たり、夜空は小さく舌打ちをした。いまさらセンチメンタルになぬたところでどうしようもないではないか。
最後に作った笑顔のおかげで、隣人部の空間からは予想以上に早く抜け出すことができた。小鷹とも結局、ほとんどいつもとおりに別れた。勿論夜空としてはそれでよかったし、これからもいつもとおりを続けるつもりでもあった。
革靴を鳴らして歩く、最後になるであろう通学路。サクラになるべく意識をやるようにして、けれどやはりもうひとつの足音が気になってしまうのを止められず、仕方なく振り向かずに立ち止まって、
「……で、何故お前はわたしについてくるんだ」
「え、えっと……ついていっちゃ、だめ?」
「何故、ついてくるのかと聞いている」
「えっとお……」
逡巡したまま自分の世界へと入ってしまった星奈に、夜空は深くため息を吐いた。ついてくるな、と一言言えばよかったのに、問い詰めてしまったせいでこうしてまだ向き合う羽目になっていることに苛々する。
苛々、と言えば部室での星奈の行動とて不快なものでしかなかった。泣きながら小鳩にすがりついていたのはいつも通りとは言え見ていて決して愉快なものではなかったし、メールを送る行為を強要したことそれ自体も、理由も笑止の至りだったと夜空は思う。だいいち、理科に告げたとおり、2年近くの嫌々の付き合いの中でも、星奈とメールをするなんて無駄な時間は、優先順位にすれば底辺ぎりぎりをさまよっていたのだ。
(また呪いでも送ってやろう)
もっとも反応する本人が近くにいなければ、その楽しみだって半減してしまうに決まっている。
と、ようやく深呼吸の音がして、ちらりと見た両拳を握りしめた彼女としっかり目が合って慌てて前を向いた。
「実は!今日!まっすぐ家に帰れない用事がある、の」
「で?」
「だから、方向、こっちかなって思ったんだけど」
「どうやら間違えたようだな」
「そ、そう!間違えちゃったのよ、ねー」
「ならさっさと引き返さないか」
「へっ?!!」
「間違いがあるのならただすべきだろう」
言いながらも、夜空はやはり立ち止まったままでいる。
彼女自身も気づけないままの歩き出せない理由を、星奈は勿論気づけずに地団駄でも踏みそうな唸り声を上げた。
「よ、夜空のいけずぅ……」
「いけずで結構。というかお前、気づいていなかったのか?」
「なに、よう」
「わたしはお前が大っ嫌いだ。意地が悪いのも知ってのとおり。ならば茶番に付き合ってやる必要もないだろう」
相変わらず青い空を見上げて言い切ったころには振り向かずにはいられなくなっていた。サクラの並ぶ道を背にして星奈は両膝をくっつけるようにして立ち、片手に卒業証書の入った紙筒を、もう片手に通学鞄を握りしめている。ブレザーでも相変わらず憎たらしいほど存在を主張する胸元には、未だに卒業式前に配布された赤いポピーが金色のピンで止められ、萎れるがままにされていた。
そうして、小さく震えているのが見て取れた。ふたりの間を吹き抜ける春の風のせいではなく。
「だって」
とうつむいたまま口を開く星奈。