Stigmata
Stigmata
「──ご苦労だったな、シオンよ」
緋色の絨毯に跪く彼を出迎えた教皇セージの声音には労るような響きがあって、ジャミールで何が起こったのか全て承知しているかのようだった。
「無事で何よりだ。詳細は明日皆と共に聞こう。今夜はゆっくりと休むが良い」
「は」
深く頭を下げ、教皇の間を退出しようとしたシオンの背に、セージは静かに声を掛けた。
「──シオン」
「はい」
「あまり思い詰めるでないぞ」
「……判っております」
ジャミールに凶星の兆しあり。
教皇の星見により派遣された自分は、その命に従って故郷を守り、妹弟子を守った。
女神の聖闘士として敵である冥闘士と闘い、討ち果たした。
それだけだ。だが──
足取りも重く深夜の十二宮を下りてきたシオンを、天秤宮で普段着姿の友が待っていた。
「戻ったか、シオン」
「……童虎……」
「寄って行かぬか?客に出す茶ぐらいはあるぞ」
屈託のないその笑顔に、少しだけ救われた気になる。
童虎の大らかな気性は、第一の宮主として常に己に厳しく在ろうとするシオンの気負いを、温かく包み込んでくれるのだった。
「ハクレイ殿はご壮健でいらっしゃったか?」
奥の私室で聖衣を外したシオンに椅子を勧め、童虎は意外にも器用な手付きで茶葉に湯を注ぐ。
「相変わらずだ、我が師は。いつまでも私を子供だと思っておられる」
ようものこのこと帰って来られたな、とシオンに憎まれ口を叩いた剛毅なハクレイも、今回の経緯にはいささか堪えたようだ。
シオンとて幾ら任務であっても、勝利の余韻に浸る気には到底なれない。
それでも童虎の淹れた茉莉花茶の芳香は、疲れた体と心を柔らかく解していくようだった。
「……童虎」
「何じゃ」
「この手で、弟弟子を殺した」
「…………」
「ジャミールに現れた魔星は、師ハクレイの元で共に学んだ弟弟子のトクサだった」
「シオン──」
「トクサの姉の目の前で、私は彼にとどめを──」
彼女の手を弟の血で汚したくなかった。
彼女に弟殺しの咎まで負わせたくはなかった。
だから自らトクサを討ったのだ。
だが、弟の遺体を抱き締め悲嘆にくれる妹弟子に、何も言えなかった。
気丈な女戦士である筈のユズリハの涙が、今も胸に痛い。
「……そうか」
童虎がその場しのぎの慰めなど口にしないことに、シオンは安堵した。
多分誰かに聞いて貰いたかっただけなのだ──ただ、懺悔のように。
そんなシオンの思いを察したかのように、童虎は立ち上がるとシオンの頭を自分の胸にもたせかけた。
肩口より少し長く伸びた髪を、まるで子供を宥めるかのように軽く撫でる。
「大丈夫じゃ。お前は間違っておらぬよ」
闘いの正義を見定める役目を負う天秤座の言葉に、シオンは微かに笑ってふっと肩の力を抜いた。
「……私は幼子ではない」
「判っておる」
童虎の鼓動を感じるのは心地好かった。
彼を育んだ悠久の大地の、力強い温もりに抱かれているような気がする。
いつまでもこうして身を委ねていたいと──
だが、優しく髪を梳いていた童虎のてのひらがそっとうなじに差し込まれた瞬間、シオンは弾かれたように身を離した。
「……っ!」
過剰とも言える反応に童虎は驚いたが、それ以上にシオンの方が動揺していた。
「…………」
「…………」
二人の視線が交錯し、やがて童虎が先に目を逸らした。
「す、すまない」
震える声で詫びるシオンに、童虎は穏やかに言った。
「……いや、なに。シオンの髪があんまり綺麗だったものでな。わしの方こそ許せ」
拒まれた、と童虎は思っただろう。
無理強いをするような男では決してないから、そういう意味ではもう二度と触れてこないかもしれない。
そう考えるとシオンはいたたまれず、「湯を足して来よう」ときびすを返しかけた童虎の腕をつかんだ。
「童虎……!」
「シオン?」
「違うのだ、童虎」
「…………」
「……聞いてくれるか?」
「──ああ」
童虎が向かいの椅子に座り直すと、シオンは目を伏せながら淡い色の髪に覆われた首筋に右手を当てた。
「ここに……大きな傷痕がある。今から六年ほど前の傷だが、多分、一生消えない」
「何じゃ、傷などわしとて至るところに……」
「闘いで負った傷なら、私も恥じるつもりはない。だが……この傷は、私の罪の証なのだ」
「……罪?」
修復師でありながら聖衣を冒涜した罪。
そして、悪への誘惑に堕ちかけた罪。
それらの罪に対する報いが、この消えない傷痕だ。
「あの時、師ハクレイが救ってくれなければ、私は今ここにこうしていなかった」
「…………」
「これは罪人の烙印<スティグマ>。私は生涯この罪を背負って生きていく。隠す気はなかったのだが、ただお前に……軽蔑されるのが怖かった」
「……シオン……」
「許せ、童虎」
シオンが何故聖闘士として、人一倍高潔で在ろうとするのか、童虎には判ったような気がした。
冷静でありながら、時に無謀とも思えるような闘い方をする訳も。
だが、幼き日の過ちから目を背けず、全生涯を賭けてその罪を贖おうとするシオンの潔癖さを愛しいと思うこそすれ、軽蔑など出来る筈もない。
「……見せてくれるか?」
シオンは一瞬肩を強張らせたが、覚悟を決めたように背を向けて上着を滑り落とした。
長い髪を片側に寄せると、白い首筋に走る無惨な傷痕が露になる。
「……醜い傷だろう?」
「なんの」
童虎は身を屈め、後ろからそっと首筋に唇を寄せた。
「……っ」
「この傷のおかげでお前がここにこうしておると言うなら、この聖痕<スティグマ>に感謝せねばなるまい」
「童虎……」
「罪を犯さぬ人間などおらぬよ。現にわしは、毎晩こうして閨でお前を喰らう夢ばかり見ていたのじゃ。わしこそ、軽蔑されると思っておった」
裸の肩を抱き締めるようにして、こちらを向かせる。
唇に接吻づけてくる童虎に、今度はシオンも逃げようとはしなかった。
「──ご苦労だったな、シオンよ」
緋色の絨毯に跪く彼を出迎えた教皇セージの声音には労るような響きがあって、ジャミールで何が起こったのか全て承知しているかのようだった。
「無事で何よりだ。詳細は明日皆と共に聞こう。今夜はゆっくりと休むが良い」
「は」
深く頭を下げ、教皇の間を退出しようとしたシオンの背に、セージは静かに声を掛けた。
「──シオン」
「はい」
「あまり思い詰めるでないぞ」
「……判っております」
ジャミールに凶星の兆しあり。
教皇の星見により派遣された自分は、その命に従って故郷を守り、妹弟子を守った。
女神の聖闘士として敵である冥闘士と闘い、討ち果たした。
それだけだ。だが──
足取りも重く深夜の十二宮を下りてきたシオンを、天秤宮で普段着姿の友が待っていた。
「戻ったか、シオン」
「……童虎……」
「寄って行かぬか?客に出す茶ぐらいはあるぞ」
屈託のないその笑顔に、少しだけ救われた気になる。
童虎の大らかな気性は、第一の宮主として常に己に厳しく在ろうとするシオンの気負いを、温かく包み込んでくれるのだった。
「ハクレイ殿はご壮健でいらっしゃったか?」
奥の私室で聖衣を外したシオンに椅子を勧め、童虎は意外にも器用な手付きで茶葉に湯を注ぐ。
「相変わらずだ、我が師は。いつまでも私を子供だと思っておられる」
ようものこのこと帰って来られたな、とシオンに憎まれ口を叩いた剛毅なハクレイも、今回の経緯にはいささか堪えたようだ。
シオンとて幾ら任務であっても、勝利の余韻に浸る気には到底なれない。
それでも童虎の淹れた茉莉花茶の芳香は、疲れた体と心を柔らかく解していくようだった。
「……童虎」
「何じゃ」
「この手で、弟弟子を殺した」
「…………」
「ジャミールに現れた魔星は、師ハクレイの元で共に学んだ弟弟子のトクサだった」
「シオン──」
「トクサの姉の目の前で、私は彼にとどめを──」
彼女の手を弟の血で汚したくなかった。
彼女に弟殺しの咎まで負わせたくはなかった。
だから自らトクサを討ったのだ。
だが、弟の遺体を抱き締め悲嘆にくれる妹弟子に、何も言えなかった。
気丈な女戦士である筈のユズリハの涙が、今も胸に痛い。
「……そうか」
童虎がその場しのぎの慰めなど口にしないことに、シオンは安堵した。
多分誰かに聞いて貰いたかっただけなのだ──ただ、懺悔のように。
そんなシオンの思いを察したかのように、童虎は立ち上がるとシオンの頭を自分の胸にもたせかけた。
肩口より少し長く伸びた髪を、まるで子供を宥めるかのように軽く撫でる。
「大丈夫じゃ。お前は間違っておらぬよ」
闘いの正義を見定める役目を負う天秤座の言葉に、シオンは微かに笑ってふっと肩の力を抜いた。
「……私は幼子ではない」
「判っておる」
童虎の鼓動を感じるのは心地好かった。
彼を育んだ悠久の大地の、力強い温もりに抱かれているような気がする。
いつまでもこうして身を委ねていたいと──
だが、優しく髪を梳いていた童虎のてのひらがそっとうなじに差し込まれた瞬間、シオンは弾かれたように身を離した。
「……っ!」
過剰とも言える反応に童虎は驚いたが、それ以上にシオンの方が動揺していた。
「…………」
「…………」
二人の視線が交錯し、やがて童虎が先に目を逸らした。
「す、すまない」
震える声で詫びるシオンに、童虎は穏やかに言った。
「……いや、なに。シオンの髪があんまり綺麗だったものでな。わしの方こそ許せ」
拒まれた、と童虎は思っただろう。
無理強いをするような男では決してないから、そういう意味ではもう二度と触れてこないかもしれない。
そう考えるとシオンはいたたまれず、「湯を足して来よう」ときびすを返しかけた童虎の腕をつかんだ。
「童虎……!」
「シオン?」
「違うのだ、童虎」
「…………」
「……聞いてくれるか?」
「──ああ」
童虎が向かいの椅子に座り直すと、シオンは目を伏せながら淡い色の髪に覆われた首筋に右手を当てた。
「ここに……大きな傷痕がある。今から六年ほど前の傷だが、多分、一生消えない」
「何じゃ、傷などわしとて至るところに……」
「闘いで負った傷なら、私も恥じるつもりはない。だが……この傷は、私の罪の証なのだ」
「……罪?」
修復師でありながら聖衣を冒涜した罪。
そして、悪への誘惑に堕ちかけた罪。
それらの罪に対する報いが、この消えない傷痕だ。
「あの時、師ハクレイが救ってくれなければ、私は今ここにこうしていなかった」
「…………」
「これは罪人の烙印<スティグマ>。私は生涯この罪を背負って生きていく。隠す気はなかったのだが、ただお前に……軽蔑されるのが怖かった」
「……シオン……」
「許せ、童虎」
シオンが何故聖闘士として、人一倍高潔で在ろうとするのか、童虎には判ったような気がした。
冷静でありながら、時に無謀とも思えるような闘い方をする訳も。
だが、幼き日の過ちから目を背けず、全生涯を賭けてその罪を贖おうとするシオンの潔癖さを愛しいと思うこそすれ、軽蔑など出来る筈もない。
「……見せてくれるか?」
シオンは一瞬肩を強張らせたが、覚悟を決めたように背を向けて上着を滑り落とした。
長い髪を片側に寄せると、白い首筋に走る無惨な傷痕が露になる。
「……醜い傷だろう?」
「なんの」
童虎は身を屈め、後ろからそっと首筋に唇を寄せた。
「……っ」
「この傷のおかげでお前がここにこうしておると言うなら、この聖痕<スティグマ>に感謝せねばなるまい」
「童虎……」
「罪を犯さぬ人間などおらぬよ。現にわしは、毎晩こうして閨でお前を喰らう夢ばかり見ていたのじゃ。わしこそ、軽蔑されると思っておった」
裸の肩を抱き締めるようにして、こちらを向かせる。
唇に接吻づけてくる童虎に、今度はシオンも逃げようとはしなかった。