産声は、いま
そっと触れ合わせた唇は砂糖菓子のように甘く淡雪のようにやわらかい。ゆっくりと離れてみれば、不破がとうとう涙を溢れさせていた。
透明な雫はまるで玻璃のようできれいだと、彼から零れるものが勿体なくて舌先に浚う。
涙とは違う濡れた感触に不破は薄らと目蓋を開いた。
「な、に」
「雷蔵は、涙まであまいね」
「ん、や。やめ」
鉢屋は次から次へと溢れる雫を掬いとっていく。不破が顔を背けて逃れようとすれば、床板にぽたりと小さく水溜まりが出来た。次々と空知らぬ雨は降り注ぐ。
「やだ。やめない」
ざらついた熱が涙の跡を辿って耳朶まで及んだ。
「三郎」
「やめて欲しかったら、もっと泣いて? それで偶には私に甘やかさせてくれ」
耳孔に直接吹き込まれた声に背筋が震えた。卑怯だ。と、不破は思う。普段のふざけた空気は何処にもなく、至極真剣な声が鼓膜を打つ。それだけで理不尽な要求も受け入れてしまいそうになる。
「なん、だよ。それ」
笑おうとして失敗した。最早添えられるだけになっていた腕を抜けて、延ばした諸手で鉢屋に縋りつく。鼻の奥に引き攣れた感覚を残して後はもう、止めどなく溢れる涙に不破は泣き濡れた。
漸く。漸く与える事が出来たと鉢屋が嬉しそうに抱き締めて、声も出さずに静かに泣く彼をやさしくあやした。
そうしてひと頻り泣いてしゃくりあげる声が落ち着き始めた頃。
「すきだよ。ずっと雷蔵がすきだった。君に嫌われたくないから、諦めようと思ってたんだ」
噛んで含ませるように囁けば、鉢屋の腕のなかで不破が身動いだ。僅かに躰を離して顔を合わせられるだけの隙間を作る。まだ睫に雫を乗せたまま不破は揺れる眼差しを見せた。
「……まだ信じられない。ねえ、本当? またからかってたりとかしない?」
鉢屋は苦く笑った。何時だって戯けた態度を見せていれば仕方ないとは思う。けれど強く疑われればさすがに胸の奥が痛くなる。
「私はそんなに信用ないか雷蔵」
「だって、僕は。まじめなくらいしか取り柄がなくて、でもおまえと並んで立てる程じゃなくて。いつも追いかけてばかりだ」
「でもちゃんと追いついてくれる」
「そんなの、僕だけじゃないだろう」
「雷蔵だけだよ。雷蔵だけ。ちゃんと私を見つけてくれたのは」
初めから鉢屋とその他の間には随分と距離が空いていた。皆が先に進めば同じ分だけ彼も先へと進んでいる。その内に級友たちは何時までも埋まらない差をそういうものだと諦めだした。先に進むしかない道の途中、鉢屋はずっとひとりだった。
不破だけが。並ぼうとしてくれた。手を伸ばしてくれた。
ただでさえ彼は欠けていた器を補うように、零れていくより多くを注いでくれる。捨てた事も気づかなかった様々なものを、惜しみなく与えてくれる。それだけでも充分だというのに共に立つ事を望んでくれたのだ。
それと気づいた時から彼が鉢屋の特別になった。
この僥倖を信じ切れていないのは己も同じだと自嘲する。けれど不破の真意が何であろうと離してやる気はなかった。
「随分昔から、君が居ないと私は私でいる事も出来ないんだ」
今立っていられるのは、彼が追いかけてきてくれるから。笑っていられるのは彼が思い出させてくれたから。やさしく在る事を。振り返る事も。
およそひとでいられるのは。彼が居てくれるから。
「雷蔵。私は君がすきだ。そして幸いな事に君は私を好いてくれた。それじゃあ駄目か?」
「……、僕は。おまえはずっと傍にいると思ってて。けれど誰かのものになるかと思ったら急に怖くなって、そんな日が来るなんて考えた事もなかったんだ」
一度伏せた視線をまっすぐに据える。そこに揺らぎはなく、不破の強さが見える。彼は心を決めてしまえば剛胆になるのだ。
「ずっとじゃなくていい。置いて行ってくれても構わない。けれど。僕をおまえのなかに入れて。一番近いところを何時だって僕の為に空けておいて」
「置いて行かないよ。嫌がったって無理矢理引っ張っていくから。第一、これからだって君以上のひとなんてない」
触れてしまいそうな程の至近距離で、互いのこころを曝け出す。
「すきだよ」
言葉は唇のなかに消えた。
敬虔な想いで交わした口づけを終えてふたり。密やかに笑い合ってじゃれるようにまた抱き締め合った。
「ふたりして、擦れ違ってた訳だけど」
「こんな事なら、もっと早く云えばよかった」
「本当にな」
「じゃあそっちから云ってくれればよかったのに」
「云ったろう。嫌われたくなかったんだ。普通、嫌じゃないか? 男にそういう意味で好かれるのって」
「確かに、あまりいい気はしないかな」
否定せずに不破が苦笑する。仕方がない事だ。本来そういう風に出来てはいない。
けれど鉢屋の耳朶に寄せられた唇が、次いで小さく呟いた。
「三郎は、嫌じゃないからな」
驚きに首を巡らせれば目元のみならず顔中をほんのりと赤く染めてはにかむ彼と目が合った。釣られて熱くなった己の顔を隠す為に、鉢屋は不破の肩口に顔を埋めた。
「雷蔵」
「なに?」
「もう暫くこのままで居てもいい?」
「ん」
20090531.了。