産声は、いま
「すきだよ」
「え」
「おまえが、すきだ」
息を飲む。思ってもみなかった言葉に鉢屋は動けない。現を拒むあまりに都合のいい幻聴を聞いたのかとさえ疑ってしまう。
しかし触れる熱に痺れそなう肌は、本当だ。
ただ一言、彼の声だけが頭のなかに木霊する。生涯得る事はないと諦めていたその珠玉を手中に収めたというのに、実感がない。
何の反応も返せないまま、寸刻。
「ごめん。忘れて」
「っ、雷蔵!」
続く沈黙を拒絶ととったものか。離れようとする不破の腕を咄嗟に掴み、引き倒した。その別離は永遠だ。彼を繋ぎ止める為に鉢屋は必死だった。
ぐしゃり膝から飛ばされた本が無惨に潰れる。一拍置いて不破が床板にぶつかる音が盛大に響いたが気にかける余裕もなく、腕に隠される一瞬に見えた彼の表情が鉢屋は目蓋に焼き付いて離れない。
「雷蔵」
それでも逃げようと後退る不破を引き寄せて腕の内に閉じ込めて。強引に覗き込んだ目には涙が溜まっていた。
「それ、嘘じゃない?」
覆い被さる鉢屋は全身で退路を断っている。
密着する躰。早鐘のような鼓動。響くのはひとり分。掴まれた手には汗が滲む。
不破が静かに首を振った。
「ごめん。ごめんね。でも、もうどうしようもなかったんだ。おまえが誰かのものになる前に云っておきたくて」
顔を背ける事も出来ずに不破は表情を歪ませる。まるで叱られたこどものようだ。
「どうして謝るの? 嬉しかったのに」
鉢屋は胸の内から溢れる想いを漸く言葉に代える。気の利いた科白なんてものは出てこなかった。ただひと言にすべてを込めて。
「私も君がすきだよ」
「それこそ嘘だ」
傷ついた瞳をして、不破が即座に否定した。
「どうしてそう思うんだ」
拒まれる。しかし怖れていた事態にも然程の衝撃はなかった。だってもう鉢屋は彼のこころを知っている。
「だって。すきなひと、いるんだろう。見てれば判るよ」
云いながら眦に大粒の雫が乗る。もう少しで溢れてしまいそうだ。己の言葉にさえ傷を負う彼が愛おしいと思う。掠めるように口づけを贈り、晴れやかに笑って鉢屋は額を突き合わせた。
「ばかだな。なんで自分の事だと思わないんだ」
ただでさえ円らな目を更に丸くして不破は驚いている。次いで細められた隙間からついにひと雫、流れ落ちた。
「……思わないよ。そんなの」
近すぎて暈ける視界のなか。ただまっすぐに合わせられた瞳に嘘はなかった。
「雷蔵」
また顔を隠そうとする不破の腕を床板に縫いとめる。ゆっくりとその目蓋が伏せられた。
そして二度目の口づけを。
【 産声は、いま 】