町内ライダー
その3
「芦河さん!」
声を掛けられ、芦河ショウイチは足を止めた。
声の主は、SAUL第一班に所属する、氷川誠だった。
「やあ氷川さん、お疲れさまです」
今はある事件の聞き込み中で、時刻も昼下がり、どこかで昼食がてら休憩を取ろうかと考えていた所だった。芦河は、氷川がもし昼食がまだなのであれば、誘おうと考えた。
氷川は、芦河が未確認生命体・アンノウンが関係する事件専門の特別部署――SAUL第二班に配属される前から、アンノウンと戦っていた。若くして、あかつき号の英雄と呼ばれているが、本人は真面目一徹、名誉を鼻にかけず腰の低い人物だった。融通のきかない所はあるものの、好青年を絵に描いたような男だ。
芦河は彼に好感と尊敬をもって接していたし、向こうも年上の芦河に、余計な位の敬意を払ってくれた。
「こんな所で会うなんて偶然ですね。芦河さんも聞き込みですか?」
「そうです。今昼飯にしようと思っていたんですが、氷川さんはもう済まされましたか?」
「いや、僕もこれからです。知り合いの店が近くにあるんですが、良ければ一緒に如何ですか?」
「私も、良ければ一緒にとお誘いしようと思っていたんです。是非喜んで」
にこりと笑ってみせると、氷川も嬉しそうに顔をほころばせて頷いた。
裏道に入って暫く歩くと、レストランの看板が見えてきた。
近付いて店の名前を読もうとして、読めずに芦河は首を捻った。
「アギティー……オメガ? 変わった名前ですね」
店名は『AGITΩ』と表記されていた。正直、あまり美味しい料理が出てくる予感は抱かせない名前だった。
「ははは。店主はこれで、アギト、と読ませたいらしいですけど、やっぱりちょっと無理がありますね」
「アギト……」
芦河は今度は、驚きをもって看板を見上げた。
アギト。人類の進化した姿とも言われているが、まだその存在については謎が多い。
公的には明かしていないし氷川にも話していないが、芦河はアギトに変化した。
発現した超能力や、異形と化した己が誰も傷つけないようにと、逃げるように隠遁生活を送っていたが、ある出来事を切っ掛けに立ち直り、復職した。
その芦河からしてみると、レストランの名前にアギトと名付けるセンスは、およそ信じ難いものだった。彼にとってアギトとは乗り越えるべき試練であり、レストランという平和の象徴のような場所には、不似合いなように思われた。
氷川の後から店内に入ると、席数はそう多くない。小ぢんまりとした店だった。
昼時からは少し遅い時間のせいか、店内に他の客はまばらで、食後のコーヒーを飲みながら、ゆったりとした時間を楽しんでいるようだった。
落ち着いた暖色の照明がダークブラウンの調度を照らしている。やや低い音量で、ピアノ曲が掛かっていた。
四人掛けの席に氷川と向かい合わせに腰掛けると、白衣の女性が水を運んできた。
「いらっしゃいませ。氷川さん、お久し振りです」
「やあ可奈さん、お久し振りです」
ウエイトレス、という身なりでもないのでコックなのだろうか。お冷やを運んできた女性は、嬉しげに氷川に挨拶した。
「後でオーナーにも顔を出すように申し伝えますね。氷川さんが見えられたって知ったら、凄く喜びますよ」
「津上さんとも久しぶりだ、忙しくないようであれば是非お願いします」
機嫌良さそうに笑って、氷川はお任せランチを注文した。芦河も特に食べたいものは決めていなかったので、それに倣う。
可奈は注文を聞いて裏へ下がっていった。
芦河は簡単に店内を見回した。テーブルの上の、メニューが纏めてある脇の辺りに、何かの告知がアクリルケースに挟まれて置いてあった。
手にとって眺めて、芦河はその内容に唖然とした。
『アギトの会では、悩めるアギトのお力になりたいと考えています。一人で悩む前にまず相談! お問い合わせは店主までお気軽に』
暫し、唖然とその文章を眺め、芦河は困惑で顔をやや歪めながら氷川を見た。
「……あの、この、アギトの会というのは……一体」
「ああ。書いてある通り、アギト同士が悩みを相談したり、交流したりして、助け合っていこうっていう会ですよ。僕も補欠会員なんですが、仕事が忙しくて中々会合に参加できなくて」
今、さらりと、とんでもない事を言われた気がする。
芦河の表情はますます困惑の色を深めた。
「じゃあ……氷川さんも、アギト?」
「いや、僕は違いますよ。だから補欠会員なんです」
何でもない事のように氷川は明るく言った。
何故氷川と自分の間には、こうもアギトに対する認識に開きがある様子なのだろうか?
芦河には全く推測が付かなかった。
確かに、芦河がSAULに所属する前の報告書には、アギトと共闘した記録が残っている。氷川がアギトに好意的なのは当然かもしれない。
だが、何故、こうも屈託なく当たり前のように話すのか? それが分からなかった。
悩んでいるうちに、料理が運ばれてきた。ハンバーグと付け合わせ、サラダにライス、スープ。
「やあ、お腹空きましたね。頂きます」
行儀よく、氷川は手を合わせてからフォークを握った。芦河もそれに倣う。
「ああもう、氷川さん! ちゃんとナプキンを使わないと、ソースが飛びますよ!」
声がして、若い男がテーブルへと駆け寄ってきた。
コック姿の男は肌の色が浅黒い。仕様がない、と書いてあるかのような顔で氷川を見ていた。
「久し振りに会って第一声がそれですか。僕は大丈夫です。ハンバーグ位、服を汚さずに食べられます」
「鉄板が熱いからソースがはねるし、氷川さん不器用だから不安なんです。ほら、俺が付けてあげますから」
「なっ……ナプキン位、自分で付けられます! 放っておいて下さい!」
何だろうこのコントは。
世話焼きのお母さんと思春期の息子か。
男と氷川はナプキンを奪い合ってお互い譲らない。氷川の肘のすぐ傍に、熱くなった鉄板に乗ったハンバーグがあるのだから、肘がぶつかってはと思うと気が気でない。
「……それこそ皿が引っ繰り返りますよ。そんな事で喧嘩しないで下さい」
「「喧嘩じゃありません!」」
余りに余りだったので芦河がたまらず口を挟んだが、それに答えた二人の息はぴったりだった。
「大変、仲のよろしい事で……」
呆れ返ってしまい、芦河の声は投げ遣りになっていた。氷川も若い男も、漸く自らの姿を省みたのか、ナプキンは氷川の手に渡り、氷川はばつが悪そうな顔をしながら、ナプキンで素直に胸元を覆った。
「いやあ、すいませんお見苦しい所を。オーナーシェフの津上翔一です。お味は如何ですか?」
「……どうもご丁寧に。大変美味しいです」
若い男が芦河に向き直り、丁寧に挨拶をして頭を下げた。
お世辞ではなく、料理は美味しかった。ハンバーグはどこか家庭的な素朴さを残した味わいだが、ふっくらと柔らかく、肉の味や脂の甘味もしっかりしている。付け合わせの人参や玉葱などの野菜も、野菜本来の甘味や香りの風味がいい。味付けは控えめだが、それがデミグラスソースのハンバーグの箸休めとしてぴったりしている。
それにしても若い。津上翔一と名乗ったオーナーシェフは、まだ二十代半ば程に見えた。
「氷川さんの同僚の方ですか?」