町内ライダー
その10
夜も更け、細い路地はすっかり暗い。
尾上タクミは、道の先に見覚えのある顔を見つけて足を止めた。
「タクミ君、どうしたの?」
一緒に歩いていたバイト仲間の山中望美と上城睦月も足を止める。
「あの子、いつも六時頃に大根と玉子買いに来る子じゃない?」
言ってタクミは前方を指差した。
一人の少女が、店仕舞いなのか、暖簾を下ろして店内へとしまい込んでいる。
「あ、そうだ。いつも来る子だ。あそこ確かおでん屋だよね。あそこの子だったんだ」
睦月がタクミの言葉に同意する。
今一緒に歩いている三人は、スーパーマーケットのレジチェッカーのバイト仲間。タクミだけは高校が違うが、三人とも高校生で、睦月と望美はタクミの別のバイト先の常連でもあるので、普段から親しくしている。
午後九時までの勤務が終わり、今は帰宅途中だった。
毎日来るお客さんは自然と顔を覚えるし、例えば弁当の箸はいるのか、ポイントカードはあるのかないのかなど、細かい事も自然に覚えてしまう。
おでん屋の子と思しき今の少女も、スーパーに毎日買い物に来る。買うものは決まって大根と玉子、他の物は買わない。タクミは火・木しかいないが、他の日にも来ているようだった。ポイントカードとエコバッグは持っている子だ。そして可愛い。タクミも睦月も、よく覚えているのは当然といえば当然だった。
ただそれだけといえばそれだけ、の筈だったのだが。
ふと、気配を感じて、タクミは、自分達が歩いているのとは反対側の歩道を見た。
路地の角から、一人の男がじっとおでん屋を見つめていた。
年の頃は二十代後半から三十ほど。地味な色のテーラードのジャケットに、ベージュのスラックスの出で立ち。生真面目そうな印象があったが、それが却って、こんな夜更けに路地裏から隠れておでん屋を見つめているという行動に違和感を与えている。
おでん屋の少女はもう店の奥に引っ込んでしまった。だが男は身じろぎもせず、おでん屋を見つめ続けていた。
「……あの人、何してるんだろう?」
ぽそりとタクミが呟くと、望美も睦月も男の存在に気付いて、タクミ同様怪訝そうに男を見た。
「……もしかして、さっきの子のストーカー、とか?」
望美が思い付きを口にすると、睦月が、よし、と呟いて、男に向かって歩き出した。
「ちょっと睦月、何する気?」
「確かめるんだよ」
尋ねた望美の声には多少咎めるような響きもあったが、睦月は気にした様子もなく男に向かい歩を進める。やがて男が気付いて、睦月を見た。
睦月を見た男の顔は、何だろう? という疑問の色以外には特にこれといって感情は浮かんでいないように見えた。身を隠している位だから少しは動揺するかと思えば、全くそんな事はない。
「あなた、こんな所で何してるんですか」
睦月が強い口調で呼び掛けると、男は答えに困ったのか、うーん、と唸って、難しい顔をして首を捻った。
「何で黙ってるんです。あのおでん屋に何か用があるんですか」
「用……というか、俺の家なんだけど、余りに久し振り過ぎるから、何て言って帰ろうかなあって、困ってて。どうしたらいいと思う?」
男の答えを聞いて、睦月は勿論、追いついたタクミも望美もぽかんとした。
自分の家ならさっさと入ればいいではないか。
「そんな事……聞かれても……」
「うーん……やっぱり駄目か。参ったなぁ、どうしようか」
「普通に帰ればいいんじゃ……」
呆れたように睦月が言うが、男は難しい顔で考え込んだまま動こうとしなかった。
何故こんなにも自分の家に入るのを躊躇うのだろうか。つまらない事で家出でもして金が尽きて帰ってきた放蕩亭主のようだ。
それ以上かける言葉もなく、タクミと望美、そして睦月も困り果てていたところに、何人かの男が早足で道を歩いてきた。
彼等はそのまま、もう暖簾を下ろしたおでん屋の前へと立った。
どう見てもその筋の人が三人。リーダー格の白いスーツの男は後ろに控え、若い衆二人がおでん屋の引き戸を叩いた。
「おいこらババア、出てこんかい!」
「わしら客じゃ! ここ開けておでん出せや! 開けんかったらこのドア蹴り倒すぞ!」
静まり返った夜の住宅街に、柄の悪い声は高く響いた。どう見ても嫌がらせだ。
そういえば、最近ここらで地上げの話があると、スーパーの店長がぼやいていたのをタクミは思い出した。
ハカランダも西洋洗濯舗菊池も、どちらも大抵のクレーマーには負けない頼もしい男がそれぞれいるため、タクミ自身には実感はなかったが、最近柄の悪い男たちが古くから営業している店を潰して土地を二束三文で買い叩こうとしているという話だった。
そんなタクミが生まれる前の話みたいな地上げがまさか、と思っていたが、本当にやっているとは思わなかった。
警察に連絡しようか、そう思って携帯電話を取り出すと、それまで困った顔をして角から出てこなかった男が、おでん屋へと歩き出した。
厳しい顔で、無言だ。あのおでん屋は、本当に彼の家なのだろう。
「こんな夜中に、うちに何の御用ですか。もう店じまいしてあります。また明日にでもお出でくださいますか」
あくまで口調は丁寧に、男は白いスーツに話しかけた。白いスーツは男を一瞥しただけだったが、前で喚いていた若い衆二人が振り返り、男を睨みつけた。
「何じゃお前? 引っ込んでろ!」
「この家の者です。悪いが、うちにはあんたらに出すようなおでんは置いてない」
「んだとこの!」
右の男が殴りかかるが、男は冷静だった。殴りかかった右腕を掴み、体を半回転、そのままの勢いで殴りかかった男を背負い投げにした。
投げられた男は苦しげに呻く。左側の男も慌てた様子で飛びかかるが、カウンターで鳩尾に綺麗なミドルキックを決められて、腹を抱えて踞った。
相変わらず静かな表情のまま、男はぐるりと辺りを見回して、白いスーツの男に視線を向けた。白いスーツの男はちっと舌打ちをすると、背を向けて歩き出す。ようやく立ち上がった二人の若い衆も、覚えてろとテンプレートそのままの捨て台詞を残してから、ほうほうの体でその後を追った。
「……すげえ」
「うん、すごいねえ……」
睦月と望美が、呆気にとられた顔のまま呟いた。
戦い慣れている身のこなしだった。おでん屋の人には残念ながら見えない。
ふう、と男が息を一つ吐くと、外の騒ぎを聞きつけたのかおでん屋の出入口の引き戸ががらがらと開いて、先程暖簾を仕舞っていた少女が顔を覗かせた。
「…………おにい、ちゃん?」
「……よっ、マユ、久し振り。ただいま」
男が笑って右手を顔の横に上げた。少女は、まるで幽霊でも見ているような、信じられないものを見たような顔で男を見ていた。
「どう……して……?」
「うーん……その質問は難しいな。俺にもよく分からんが、とにかくこうして帰ってこられるようになった」
「嘘みたい……お兄ちゃん、本当にお兄ちゃんなの」
マユ、というらしい。少女は大きな瞳一杯に涙を溜めて、必死に零れ落ちるのを堪えているようだった。
何だかよく分からないが、めでたしめでたし、といったところなのだろう。
「……帰ろうか」
「うん、そうだね、遅くなると怒られちゃう」