町内ライダー
「こんばんはーっ」
明るい声を出しながらドアを開け入ってきたのは、常連客の一人、剣崎だった。
BOARDという企業の研究開発部門に勤めているということだが、全く研究者、という感じはしない。
例えるならテストドライバーのような仕事をしている、とだけ聞いた。
頭に血が上りやすいのと、他人の心配ばかりで自分の事を気にかけなさすぎる所が欠点だが、悪い奴じゃない。
彼のいない所で彼についてそう語ったのは、このハカランダに住み込みで働く、相川始だった。
相川始は無口で、店主の栗原遥と、その娘の栗原天音以外には滅多に笑顔を見せないほどの筋金入りの無愛想だった。
多少引っ込み思案な所もあるタクミは、初めて彼を見た時は、この気難しそうな先輩と上手く付き合っていけるのかが不安だったが、それは杞憂に終わった。
バイトの募集を見て面接を行い、帰る際に、帰り道で待っていた相川始に呼び止められ、質問をされた。
「お前、何を企んでいる?」
「……企む……って?」
相川始の目線は厳しかった。全く身に覚えの無いタクミは戸惑って目線を逸らした。だが、相川始の視線はタクミから外れなかった。
「最近、人間以外の奴がやけに増えた。もしお前が、あの親子に何か危害を加える目的で近付いてきているなら、俺は許すわけにはいかない」
言われて、タクミは目を見はり、相川始を見た。
ばれている。
顔から血の気が、一気に引いたのが自分でも分かった。
でも、違う。タクミは必死になって、首を何回も横に振った。
「違います……僕、違います。高校に、通い続けたいんです……だから、お金を稼ぎたくて」
「本当にそれだけか。信用しろと言うのか」
「どうしても、高校を辞めたくないんです。僕、夢があって……だから」
目を伏せたまま、たどたどしくタクミは言葉を繋いだ。それを見て、相川始は、一つ息を吐いてから、目線を緩めた。
「……いいだろう。だが、嘘と分かれば、俺は全力でお前を叩き潰す。それだけ覚えておけ」
始の言葉にタクミは強く頷いた。
タクミは、守りたいと思ったけれども、誰かを傷つけたいなんて思った事はない。
タクミの正体を、正確にかどうかは分からないが悟ったという事は、恐らく相川始も、人間以外の何かなのだろう。
だけれども、何故かは知らないが、この人はあの親子を守ろうとしている。
それなら僕と同じだ、そう思った。
人間じゃない、とまで見抜かれてあの喫茶店で働く理由もないのかもしれなかったけれども、同じ思いを持っている人がいるなら、頑張れるかもしれない、何となくそうも思った。
相川始は決して人当たりが良くはないが、所々優しいという事が分かった。栗原天音には全面的に優しい。
例えば、始から遥に申し出て、タクミに賄いが出るようになったりだとか。タクミがあしらいに困るような客は、助け舟は出さないが、代われと言われれば、一切文句は言わずに代わる。帰りが遅くならないように、後は俺がやると声をかけてくれる。
人間以外の何かなのだろうという推測はついていたが、タクミにとって、彼は人間以外の何とも思われなかった。
「こんばんは、剣崎さん」
「こんばんは。あ、コーヒーおねがいね。おーい、始ーっ」
にっこりと笑顔を返してから注文をして、剣崎は相川始を呼んだ。
今日は小雨がずっと降り続いているせいか、客足は遠のいて、七時を過ぎた今は店の中はがらんとして、客として座っているのは剣崎だけだった。
「……今日は何だ」
相川始は呼ばれると、明らかに嫌そうな顔をしながら、それでも剣崎の座った席へと歩いていった。
「今日はこれだ! どうだこれ、ハワイアンクロスステッチ! 絶対楽しいぞ!」
剣崎が一枚のチラシをポケットから取り出して、折り畳まれていたチラシを開いて示した。
それを見て、元々寄せられて皺が刻まれていた始の眉には、ますます皺が増えた。
「……昨日はビーズクロッシェ教室だったな……お前は俺に一体何をさせたいんだ」
「友達作り!」
相川始の苦い顔を全く気にかけた様子もなく、疑問も打算もない顔で、剣崎は笑って勢いよく答えた。
変な二人だ、とタクミはその毎日繰り返される光景を眺めて、改めて思った。
始は嫌な顔をしているのに呼ばれれば剣崎の方へ行くし、剣崎はあの無愛想さに全く怯む事がない。
そもそも、始に友達を作らせようという発想が、常人離れしている。
「……それは、いらん」
「えー、何でだよ。それにさ、クロスステッチで遥さんとかに何か作ればいいじゃないか」
「必要ない」
「必要ないって事はないと思うんだけどなぁ」
「友達はもういるから、これ以上は必要ないと言ってるんだ。分からない奴だ」
不機嫌な声で答えて、始はカウンターへと歩いていった。
そのやりとりを見て、タクミはぽかんと、始を見て剣崎を見た。
剣崎は、絶対必要なのに……、と、諦めきれない様子でぶつぶつと呟いている。
本当に変な二人だった。
手芸教室で出来る友達の性別や年齢層を考えていない所も可笑しかったし、お前がいればそれでいい、と言われているも同然だという事に気付いていない様子も可笑しかった。
からん、とドアが鳴った。男が一人入ってきて、カウンターにどかりと座った。
歳の頃は二十半ば程だろうか。だぼついたジーンズの上下に、やはりゆったりとしたTシャツ。天然パーマなのか、縮れた髪を、帽子で無造作に押さえている印象だった。眼は垂れ下がり気味だが、顔全体の線が細くすっと引かれている印象があり、他人を寄せ付けようとしない鋭さがあった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか」
「コーヒー」
「かしこまりました」
お冷やを出したタクミに、男はハスキーな声で手短に伝えた。
遥に注文を告げようとトレイを持って振り向いて、タクミはぎょっとした。
始の目線が鋭い。今入ってきた男を見ていた。
「……コーヒー、お願いします」
「はぁい」
遥に注文を伝えて、タクミは今入ってきた男をそっと見た。
男は、壁を見ているようだった。壁には亡くなった栗原晋が撮った写真が飾ってあり、その下にアコースティックギターが立てかけてあった。
「おい、兄ちゃん」
「……はい?」
男は壁を見たままで声を発した。呼ばれたのが自分なのかは判然としなかったが、タクミは返事を返した。
「あのギター、弾いてもいいか?」
男はギターから視線を外さずに尋ねた。
タクミがすぐに答えられる質問ではなかった。返答に困り、遥を見る。
「どうぞ。チューニングしないといけないかもしれませんけど」
遥が笑顔で答えたので、タクミはギターに駆け寄って持ち上げ、男に手渡した。
「ありがとよ」
「いいえ」
男はギターを抱えると、実に手馴れた様子で爪弾き始めた。ラの音だろうか。音の具合を見ているのかもしれなかった。
やがて一旦音が止んで、男は何かの曲を弾き始めた。
曲を聴いた時にそれを評価する言葉というのをタクミはあまり持ち合わせていないけど、何だかとても綺麗な曲なので、綺麗な事が悲しい、と思った。
暫く男は無心でギターを弾いていたが、曲の途中で、音が急に途切れた。