町内ライダー
それまで別の空気が流れていた店内は、急に、外の小雨のしとしととした空気へと引き戻されてしまった。
「……ありがとよ、久しぶりに弾けて楽しかった」
笑って言って、男はギターをタクミに差し出した。タクミは暫く、受け取る動作を忘れたみたいにその様を見ていたが、はっと気付いてギターを受け取った。
ギターを渡すと、男は手を何度か振って、握ったり開いたりしていた。
やっぱり忘れていたのかもしれない、今更拍手が聞こえた。テーブル席に一人で座った剣崎が、分かりやすく尊敬の眼差しを男に向けて、何度も掌を合わせて叩いていた。
「凄い! 俺、音楽とかよく分かんないけど、今のギター、凄く好きだったなぁ」
「当ったり前だ。この天才のギターが聴けるなんて滅多にないぞ。感謝しとけ」
悪びれずに言って、男はコーヒーを啜った。
「えっ、また聴かせてくださいよ! 俺、また聴きたいな! なあ始!」
剣崎は、一人で納得してうんうんと頷きながら始を見た。始は表情を動かさないままで、一度だけ頷いていた。
気が向いたらな、と短く答えて、男は剣崎からカウンターの向こうへと視線を戻して、またコーヒーを啜った。
「あの……久しぶりに弾いた、って仰ってましたけど、ギターは?」
「ああ、俺のか。捨てちまったんだよ」
「えっ」
タクミの質問に、男はタクミを見ないまま、苦笑交じりの声で答えた。
「何ちゅうかなぁ、俺が今ギターを弾いたのは、夢の残り滓みたいなもんさ。ただの気まぐれだよ」
残り滓。タクミにはその言葉はよく分からなかった。男の声は、何だかとても優しげで柔らかかった。
男は、やや冷めたコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「ごっそさん、お会計」
「あ、はい」
レジでタクミが会計をしていると、遥がこちらへ歩いてきた。
「もし宜しければ、また弾きに来てください。いつでもお待ちしてますから」
「おう、コーヒーも美味かったしな。また来るわ」
笑顔で答えて、男はドアへと歩いていった。
「ありがとうございました」
タクミが声を掛けると、男は律儀に右手を上げて振って答えて、店を出て行った。