鍵当番
「いっしょにくらそうか」
その声は外の嵐とは対照的に、まるで澄み切った青空のように爽やかで
僕はぼんやりとその言葉をきいていた。まるで夢心地のように。
夢だと、思ったことがどうやら夢だったらしい。
次の日の帰り道、正門前で待っていた臨也さんは、にっこり笑って僕の手のひらに一枚のカードをポンと乗せた。それがカードじゃなくカードキーだと気づいたのは、それを裏返したり凝視したりしている時に、「俺の部屋の鍵だよ」と臨也さんが教えてくれたからだ。高級マンションに住んだこともなければ、一流ホテルに泊まる機会があるわけでもない僕には、それはあまり馴染みのない代物だった。
「…本気だったんです、か」
「俺はいつでも本気だよ?帝人君に対してなら特にね」
その言葉は良い意味でも悪い意味でも、あまりにも臨也さんらしくて笑えない。何をしでかすかわからないという点では、臨也さんは多少本気じゃないほうが世界は平和な気がする。僕の考えていることに気づいたのか、しばらく楽しそうに笑っていたけど、それには触れずに話をすすめた。
「学校は、この距離なら新宿から通うのでも問題ないね。荷物はどれくらい?業者を手配しておくよ。ああ、量なら気にしなくていい、一人暮らしにしては広いから。日中の仕事時間は波江がいるけど、顔見知りだし気にすることはないよね。俺は今からもう一仕事あるから帰るのは夜になるけど、部屋の構造や物がある場所なんかは波江に聞いてくれ。仕事関係のもの以外なら、なんでも好きに使ってくれて構わないよ。──他に何か、質問は?」
「…いえ、ありま、せん」
全部が全部冗談なわけないとは思っていたけど、まさかこんなに早く行動を起こされると思ってなかったのも事実で、思考もあまり追いついてない。それでも今のところ断る理由がないのも確かなんだ。池袋には学校があるから出て来られるし、部屋は広くて快適だろうし、なにより一人じゃない。手のひらの上のカードキーを見下ろしてそう返すと、臨也さんはうん、と満足げに笑って、僕の頭をポンと軽く撫でた。
「じゃあ、先に帰っててね」
先に帰るとか、遅くなるとか。ただいまとかおかえりとか。そういう言葉をこの人との間で交わすことになるとは思わなかった。臨也さん自身が日常生活というものからかけ離れているような気がするせいかもしれない。ましてや、誰かと一緒に生活している臨也さんなんて、とても想像できない。それが僕だなんて、尚更。
臨也さんに一歩ずつ近づいているのがわかる。それを嬉しく思うのに、違和感を感じるのはどうしてだろう。
すっきりしない思いを抱えたまま、僕は自宅経由で新宿行きの電車に乗った。
臨也さんの部屋で一緒に暮らし初めて一週間。新宿から通うのにも慣れ始めてきたところだ。一緒に住んでるとはいっても、とりたてて何かが変わったわけでもない。生活のリズムが基本的に違うんだ。僕が学校にいっている間、臨也さんと波江さんは部屋で仕事をしていることが多いし、逆に夜は臨也さんは外で仕事をしていることが多い(仕事相手が夜のほうがつかまるんだそうだ)。そんなわけで一緒に過ごすのは結局寝る時から朝方くらいになるんだけど、臨也さんとは相変わらずの距離で、これって同棲というよりも同居に近い感じがする。…いや別に同棲したかったわけじゃないけど!…とにかく。
生活は快適になったし何の問題もないのに、そこに逆に違和を感じてしまっている。前は、もっと近づきたいと思ってた。手の届かないところにいるあの人の視界に入れればそれでよかった。
…僕は贅沢になったのかな。臨也さんと暮らしはじめて、僕はあの人の特別になれたんだと、思い込んでいたんだろうか。
帰り慣れたはずの新宿のマンションに、どうしても今日は足が向かない。
池袋の雑踏、人の波の中、普段は行かないネカフェで時間を潰して、僕が新宿行きの電車に乗ったのは夜10時を過ぎていた。
エントランスを抜けてエレベーターで階を上がり、部屋の前まで来て立ち止まった。あり得ない。どうして、
「い…、臨也さん…?」
「あ、おかえりー、帝人君。遅かったねえ」
ドアに寄り掛かるようにして立っていた臨也さんは僕を視界に入れて、コートのポケットに入れていた右手を軽く挙げた。いつも僕のほうが先に帰ってきていたから、実は「おかえり」なんて言われるのは初めてでちょっと感慨深かったけど、そのときは驚きの方が大きくてただいまも言えなかった。
外はまだ寒い。夜は特に冷える。それなのに、なぜ部屋にも入らずに外で僕を待っていたんだろう?そこまで考えて、はっとする。僕は大慌てでカバンからさっきエントランスで使ったばかりのカードキーを取り出した。
まさか、
「臨也さん、これ…、これ、もしかして合鍵じゃなくて」
これを僕に渡す時、確かに臨也さんは合鍵だなんて言わなかった。そんなこと常識で考えてありえないから、僕は考えもしなかっただけだ。
これが合鍵じゃなくて、オリジナルだって。鍵はこれひとつしかないんだってこと。
「あー、うん、実はそう。俺が持ってたやつを君に渡したからね」
エントランスは他の人と一緒に抜けられたけど、部屋まではちょっとねえ。
よいしょとドアから体を起こした臨也さんは、ちょっとバツが悪そうに答えながら僕の方へと近づいて、僕の手のひらの上のカードキーをそっと包んだ。その手はおおきくて冷たい。
「ど、どうしてそんな大事なモノ…!僕はてっきりスペアだと思って…」
「いいんだよ。これは帝人君が持っていて?」
僕がそれを返そうとしても、臨也さんはかたくなに受け取らなかった。でも、僕にはその理由がどうしてもわからなくて、
臨也さんが自分の鍵を僕に託した理由、それがどうしてもわからなくて。
「臨也さんはどうして…、どうして僕と暮らそうと、思ったんですか…?」
ずっと気になっていたこと。気になって、答えなんてでなくて、自分の中で消化不良になって燻っていた疑問。
ぶつけたら変わってしまう。嫌われてしまうかもしれない、それが怖くて、なかなか口に出せなかった。
臨也さんはちょっと驚いて、それからどう言おうかすこし考えてた。形だけで頭を掻く仕種をして、それからようやく口を開く。
「んー…、あんな顔、させたくなかったから、かな?」
「え…?」
「ひとりで部屋にいたときさ、泣きたいのに泣けないような、寂しいのにそれを口には出せないような、苦しそうな顔してたんだよ。俺が一緒ならこんな顔させないのになあって、なんとなく思ったんだよね」
一緒に暮すってのは、まあ安易な結論だったけど、と自分の言葉を笑って、臨也さんはそっと僕の腕を引いた。鍵を持った手のひらごと。
その声は外の嵐とは対照的に、まるで澄み切った青空のように爽やかで
僕はぼんやりとその言葉をきいていた。まるで夢心地のように。
夢だと、思ったことがどうやら夢だったらしい。
次の日の帰り道、正門前で待っていた臨也さんは、にっこり笑って僕の手のひらに一枚のカードをポンと乗せた。それがカードじゃなくカードキーだと気づいたのは、それを裏返したり凝視したりしている時に、「俺の部屋の鍵だよ」と臨也さんが教えてくれたからだ。高級マンションに住んだこともなければ、一流ホテルに泊まる機会があるわけでもない僕には、それはあまり馴染みのない代物だった。
「…本気だったんです、か」
「俺はいつでも本気だよ?帝人君に対してなら特にね」
その言葉は良い意味でも悪い意味でも、あまりにも臨也さんらしくて笑えない。何をしでかすかわからないという点では、臨也さんは多少本気じゃないほうが世界は平和な気がする。僕の考えていることに気づいたのか、しばらく楽しそうに笑っていたけど、それには触れずに話をすすめた。
「学校は、この距離なら新宿から通うのでも問題ないね。荷物はどれくらい?業者を手配しておくよ。ああ、量なら気にしなくていい、一人暮らしにしては広いから。日中の仕事時間は波江がいるけど、顔見知りだし気にすることはないよね。俺は今からもう一仕事あるから帰るのは夜になるけど、部屋の構造や物がある場所なんかは波江に聞いてくれ。仕事関係のもの以外なら、なんでも好きに使ってくれて構わないよ。──他に何か、質問は?」
「…いえ、ありま、せん」
全部が全部冗談なわけないとは思っていたけど、まさかこんなに早く行動を起こされると思ってなかったのも事実で、思考もあまり追いついてない。それでも今のところ断る理由がないのも確かなんだ。池袋には学校があるから出て来られるし、部屋は広くて快適だろうし、なにより一人じゃない。手のひらの上のカードキーを見下ろしてそう返すと、臨也さんはうん、と満足げに笑って、僕の頭をポンと軽く撫でた。
「じゃあ、先に帰っててね」
先に帰るとか、遅くなるとか。ただいまとかおかえりとか。そういう言葉をこの人との間で交わすことになるとは思わなかった。臨也さん自身が日常生活というものからかけ離れているような気がするせいかもしれない。ましてや、誰かと一緒に生活している臨也さんなんて、とても想像できない。それが僕だなんて、尚更。
臨也さんに一歩ずつ近づいているのがわかる。それを嬉しく思うのに、違和感を感じるのはどうしてだろう。
すっきりしない思いを抱えたまま、僕は自宅経由で新宿行きの電車に乗った。
臨也さんの部屋で一緒に暮らし初めて一週間。新宿から通うのにも慣れ始めてきたところだ。一緒に住んでるとはいっても、とりたてて何かが変わったわけでもない。生活のリズムが基本的に違うんだ。僕が学校にいっている間、臨也さんと波江さんは部屋で仕事をしていることが多いし、逆に夜は臨也さんは外で仕事をしていることが多い(仕事相手が夜のほうがつかまるんだそうだ)。そんなわけで一緒に過ごすのは結局寝る時から朝方くらいになるんだけど、臨也さんとは相変わらずの距離で、これって同棲というよりも同居に近い感じがする。…いや別に同棲したかったわけじゃないけど!…とにかく。
生活は快適になったし何の問題もないのに、そこに逆に違和を感じてしまっている。前は、もっと近づきたいと思ってた。手の届かないところにいるあの人の視界に入れればそれでよかった。
…僕は贅沢になったのかな。臨也さんと暮らしはじめて、僕はあの人の特別になれたんだと、思い込んでいたんだろうか。
帰り慣れたはずの新宿のマンションに、どうしても今日は足が向かない。
池袋の雑踏、人の波の中、普段は行かないネカフェで時間を潰して、僕が新宿行きの電車に乗ったのは夜10時を過ぎていた。
エントランスを抜けてエレベーターで階を上がり、部屋の前まで来て立ち止まった。あり得ない。どうして、
「い…、臨也さん…?」
「あ、おかえりー、帝人君。遅かったねえ」
ドアに寄り掛かるようにして立っていた臨也さんは僕を視界に入れて、コートのポケットに入れていた右手を軽く挙げた。いつも僕のほうが先に帰ってきていたから、実は「おかえり」なんて言われるのは初めてでちょっと感慨深かったけど、そのときは驚きの方が大きくてただいまも言えなかった。
外はまだ寒い。夜は特に冷える。それなのに、なぜ部屋にも入らずに外で僕を待っていたんだろう?そこまで考えて、はっとする。僕は大慌てでカバンからさっきエントランスで使ったばかりのカードキーを取り出した。
まさか、
「臨也さん、これ…、これ、もしかして合鍵じゃなくて」
これを僕に渡す時、確かに臨也さんは合鍵だなんて言わなかった。そんなこと常識で考えてありえないから、僕は考えもしなかっただけだ。
これが合鍵じゃなくて、オリジナルだって。鍵はこれひとつしかないんだってこと。
「あー、うん、実はそう。俺が持ってたやつを君に渡したからね」
エントランスは他の人と一緒に抜けられたけど、部屋まではちょっとねえ。
よいしょとドアから体を起こした臨也さんは、ちょっとバツが悪そうに答えながら僕の方へと近づいて、僕の手のひらの上のカードキーをそっと包んだ。その手はおおきくて冷たい。
「ど、どうしてそんな大事なモノ…!僕はてっきりスペアだと思って…」
「いいんだよ。これは帝人君が持っていて?」
僕がそれを返そうとしても、臨也さんはかたくなに受け取らなかった。でも、僕にはその理由がどうしてもわからなくて、
臨也さんが自分の鍵を僕に託した理由、それがどうしてもわからなくて。
「臨也さんはどうして…、どうして僕と暮らそうと、思ったんですか…?」
ずっと気になっていたこと。気になって、答えなんてでなくて、自分の中で消化不良になって燻っていた疑問。
ぶつけたら変わってしまう。嫌われてしまうかもしれない、それが怖くて、なかなか口に出せなかった。
臨也さんはちょっと驚いて、それからどう言おうかすこし考えてた。形だけで頭を掻く仕種をして、それからようやく口を開く。
「んー…、あんな顔、させたくなかったから、かな?」
「え…?」
「ひとりで部屋にいたときさ、泣きたいのに泣けないような、寂しいのにそれを口には出せないような、苦しそうな顔してたんだよ。俺が一緒ならこんな顔させないのになあって、なんとなく思ったんだよね」
一緒に暮すってのは、まあ安易な結論だったけど、と自分の言葉を笑って、臨也さんはそっと僕の腕を引いた。鍵を持った手のひらごと。