愛の始点
アーサー・カークランドの感性は、どこか違っていた。大きくみればまるきり普通の、むしろ紳士という言葉が似つかわしいくらいの男である。ではこと細かく記すとすれば、どこをどういうふうに、違えているのか。端的にいうと、彼は、愛を暴力だと思っている。愛するということを、縛りつけ、殴り、思うままに与えることだと思っているのである。男の、そういう愛に対する変質的な発程は、辿らせればかつて彼が、まるで濁りのない宝石のように愛した少年に留まる。少年は、男が与えれば与えるほど順応した。次第に、アーサー、と呼ぶその声が、実兄に向けるような、たしかな穏やかさをはらむようになりはじめて、男は気をよくした。それからアーサーは、少年が求めるならば、なんでも寄越した。彼自身、愛など知るよしもない生活をしてきたから、そういうことが愛に他ならぬのだと、一点の曇りもなく、思っていたのだ。そうやって彼は、少年を、まるで実弟のように愛した。太陽のようなまぶしい笑顔、ちいさなてのひら、光に照り反る、まだゆるやかな稜線をえがいただけの、白い喉仏。…アーサーの、少年に寄る記憶は、そこで終わっている。男のなかで一切をなくしたその先は、アーサー・カークランドという繭に包まれていた少年がやがて羽化の時を迎え、それを破り捨てたというだけの、穏当な自然の過程であった。しかし、アーサーはそのことを認めなかった。認められなかった。あれだけ愛してやったのに。おれの持つ全てのものを寄越してやったのに。目が落ち窪むほどそういうことを考えて、眠れぬ夜を過ごした。ああきっと、育て方を違えたのだと、幾度も頭を抱えた。
男の、常軌を逸した愛の観念は、この辺りに由縁があった。しかし男は、あるときふと気づいた。もしもどれだけの愛を寄越したところで、いっときさえその対象が傾陽するというのならば、その兆しが浮かぶまえに、暴力と恐怖でねじ伏せればよいだけのことではないのだろうか、と。そういうことに気づいてからやがて、男の、偏屈な愛の観念は完成した。表では紳士さながら振る舞っているが、いっぺん化けの皮を剥げば、その裏側はまるでどす黒い。そういう男の仮面に気づいたものは、誰ひとりなかった。誰も彼も、紳士らしく振る舞っている顔こそがアーサー・カークランドたる男だと、思っていたのである。時折、元不良が無理するなよとからかってくるようなけだるい男もいたけれども、しかし、そのひとさえ、不良なぞよりももっと深いところに身を置いているアーサーの姿には、気づけなかった。
会議室で一人、紅茶を飲んでいた。アーサーの時間は、いつも早い。どういうときであっても、必ず三十分前には予定の場所についている。それは、根が生真面目というのもあるが、こういう、ゆるやかなひとりの時間がすきだったからというところが大きかった。今日も持参のアールグレイは、うまい。
防音壁に囲われた会議室は、一切の音を受けつけない。車のエンジン音も、さわがしい人の声も。音だけではない。この部屋には窓がなかった。まぶしい太陽の光、空の青さ、他、あらゆるわずらわしさを遮断する。それが少し心地よくて、いっとき目をとじていた。しばらくして、静かにドアが開く気配がした。悟られぬように舌を打つ。誰が来たかは、わかっている。おはよう、ルートヴィッヒ。言って、そちらには目もくれず、英字の新聞紙を広げた。暗に話しかけるな、ということである。…此処は飲食厳禁のはずでは?開口一番、それであった。もっと他に言わなきゃなんないことがあるんじゃないか、挨拶とか。言ってもくだらない応酬になるのは目に見えていたので、言及はしないでいた。一刻もはやく、話す、というわずらわしさから逃れたかったのである。構わないさ、俺を待たせるあいつらが悪い。…ああ、そうか。それ以上、ルートヴィッヒは何も言わなかった。アーサーもそれきり口をとざしてしまったので、また、相変わらずの沈黙が流れた。居心地が悪い、とおもう。この男との沈黙には、なれていたはずだった。自分たちはいつもこうして集まる際には早く着くことが多かったので。
しかし、今日はなにかが違っていた。胸の奥で奇妙な予感がくすぶっている。ちら、と横目でルートヴィッヒの様子を見る。男は書類に目を通して、その内容を幾度も反芻しているらしかった。いつも各国をまとめるのは大概この男の役目だったから、会議の内容は自分が一番よくわかっていなければならないとでも思っているのだろう。ご苦労なこった。アーサーはその様子を鼻であしらって、また新聞紙に視線を戻した。予定されている時間まで、たっぷり十五分ある。誰も来る気配がない。平和ボケだ、と思う。かつて、もっと余裕がなかった頃は、何十分、何時間と繰り上げて会議にふけこんでいた。そしてこんなふうに、会議室で新聞紙を広げて安逸している自分も、やはり十分、平和ボケしているのに違いない、と、思った。
ようやく残り五分を切った頃である。胸にくすぶるわだかまりはやはり一向に抜けずにいた。無駄に広い会議室も、いまだその静謐を崩さない。…誰もこないな。読み飽きた新聞紙を鞄に詰める。ああそうだな、と生返事をして、表面のぬるくなった紅茶をすっかり飲み干した。ああそうだ……なあ、カークランド。たしかにそう呼ばれて、びく、といっとき、アーサーの身体が硬直した。喉仏がいちど、大きく上下する。澄んだ声の裏、あきらかな喜色が息をひそめていた。その奇妙さを、アーサーは、敏感に感じとっている。そうしてひどく、気味が悪いと思った。
……おまえ、隠しきれていないよ。ルートヴィッヒがそう言い終えたのと、アーサーが大きく目をひらいたのと、会議室のドアが音を立てて開かれたのは、だいたい、同時くらいだった。アーサーはあからさまに眉をしかめてしまう。どういう意味だ。…まさか。
やあ、フランシス。ボンジュール!お兄さん、今日は早めに来たのに、やっぱりお前らには敵わないなあ。能天気に挨拶をかわすフランシスには一瞥も寄越さず、ちらとルートヴィッヒを横目で睨んだ。視線が絡む。瞬間、アーサーは弾かれたように立ち上がった。さあっと血の気がひいてゆくのが手にとるようにわかる。席に着こうとするフランシスに肩をぶつけて、ふらふらと会議室を抜けた。どうしたの、ねえ、と声が後ろで響いている。手が震えていた。いやに鼓動がはやくて、くしゃりと胸を掻く。シャツに一片、皺が寄った。
はた、と気がついたときには、トイレの洗面台に、首をつっこんで吐いていた。めまいにやられながら、口をゆすぐ。蛇口をひねって、垂れる水が排水溝にのまれてゆくのをぼんやりと見つめていた。もういくら時間が経ったか知れぬ。腕に巻いた時計を見やると、すでに半刻たっていた。会議室を出たのが二十五分ほど前である、ほとんど三十分まるまる遅刻に等しい。まずい。そうは思うけれども、なかなか身体と意識がかみ合わぬ。思うように足が出ないのである。
壁にもたれて、ずるずるとしゃがみ込む。そうしていっときまぶたを伏せた。その奥でちかちかとひかっている、ルートヴィッヒの顔。目が合ったあの瞬間の、不気味なほどうつくしく弓なりにまがるくちびる。頭のなかで、もう幾度もそういう映像が、繰り返されている。