嫁に行きましょう
明日はバレンタインデー。いや、もう今日か。
レコーディングが押しに押して、シェリルが家に帰り着いたのはもう明け方で、空の端は藍色に明け始めていた。
「ん……もう。こんな時間……」
先刻から気づいてはいたのだが、どうも熱っぽい。家の鍵を開けながらシェリルは額に手を当てた。ここのところ仕事が立て込んでいて、ろくに休みも取れなかった。少し疲れがたまってきているのかも知れない。
「やーね。体調管理はプロの仕事! もうっ」
自分で自分に言い聞かせながら、シェリルはきりっと男物のエプロンをつけて、台所に立つ。
「そうよ明日はやっともぎ取ったオフなんだから……」
ぶつぶつ言いながらシェリルは、準備してあった材料を調理台に広げた。ここ半月、まったく休みもなくがんばってきたから、このオフはとても楽しみにしていたのだ。久しぶりのアルトとの一日デート。がんばってチョコレートを自分で作って、アルトに渡すのだと決めていた。
「アルト……びっくりするかな……うふふ」
シェリルも自分の料理の腕がどの程度のものであるかは、嫌と言うほど知っていたので、それほど難しいものに挑戦する気はない。チョコレートを溶かして、生クリームを混ぜて、固めるだけ。けれどただそれだけのことが、案の定うまくいかない。
ここ数日ろくに睡眠も取らずにスタジオに詰めていて、もう既に二十四時間以上寝ていないし、どうやらだんだん熱も上がってきているし、そんな状態で滅多にしない料理、しかも簡単なレシピとは言え、それなりに手間のかかるお菓子作りなどをしているので普段は使わない神経を使い、漸くアルトに渡す分のチョコレートを作り終えたときには、台所は大惨事だった。
「あらー……」
大きな製菓用チョコレートをかなりの量買いこんできたはずなのに、何故かまともにできあがったのは、用意していた箱に入れた、ちいさな四粒だけのチョコレート。それでもちゃんと作れた。ひとりで。
「できた……」
疲れと寝不足と熱でぼうっとしながらなんとかラッピングまですませると、そのままハートの形のチョコボックスをきゅっと握りしめて、ふらふらと寝室へ向かった。そしてベッドに倒れ込む。もう限界だ、とりあえず少しだけ休もう。
なんとかシーツをたぐり寄せてくるまる。よく考えたら今自分は多分チョコレートまみれで、きっと明日白いシーツはチョコレートで大変なことになってしまっているだろう。そんなことが頭の隅をよぎったが、もう動けない。頭ががんがん痛んで、喉が渇く。
風邪など、たいしたこともない病気の筈なのに、その真っ最中はなかなかに辛いもので、何故だかとても心細くなる。こんな時、前はずっとグレイスがそばにいてくれたのに。もうグレイスはここにはいない。
そんなことを考えたら、急にぽろぽろ涙が出てきて。
誰もそばにいない。寒い。さみしい。普段はこんなことで泣いたりしないのに。おかしい。けれど涙が止まらない。
「アルト……」
今すぐその声が聞きたかった。けれど携帯電話はリビングのバッグの中。それを取りに行くだけの気力もない。
ハートの形の箱を握ったまましゃくり上げながら、いつしかシェリルは眠りの中に落ちていた。
「……遅い、な」
アルトは待ち合わせ場所の、柱時計を見上げた。
もう待ち合わせの時間を四十分も過ぎている。
シェリルは意外と時間にはきっちりしていて、仕事が押したりして時間がずれてしまうことがあるにはあるが、連絡もなく遅れることなど殆どないのだった。
そのシェリルが、こない。
アルトは携帯を見た。やはり何も連絡も入っていない。
だんだん不安になってくる。何か事件に巻き込まれていないか。事故にでも遭ったのではないか。それか予想もつかないような何ごとかが起きているのではないか。
一度もくもくと心の中に沸き出た暗雲は晴れなくて、アルトはシェリルの携帯に電話をかけながら歩き出した。やはり出ない。携帯を切って走り出す。大通りに出てタクシーを止めて乗り込み、シェリルのマンションの場所を告げた。
タクシーが走るその間も、不安で不安で仕方がない。途中で何かが起きていないかと、窓の外をずっと見続けた。
待ち合わせ場所からシェリルのマンションまではそう遠くはないので、十分ほどで到着し、アルトは支払いを済ませると転がるようにタクシーから飛び出した。オートロックは合い鍵で解除し、エレベーターを待つ間も惜しく階段を駆け上がる。鍵を突っ込み回してドアを開けると、部屋の中からは、甘さと共に何かが焦げたあとのようなにおいがする。
「シェリル!」
中に駆け込むと、リビングに続いているオープンキッチンの惨状が目に入った。
「うっわ」
においの元はこれだとすぐわかった。調理台とコンロが、ところどころ焦げを作りながらまだらにチョココーティングされている。
そしてドアが開いたままの寝室に入ると、シェリルがちいさなハートの形の箱を握りしめて眠っていた。その姿を見つけて、アルトはほっと胸をなで下ろす。
「はー……」
深くためいきをつきながら、アルトはベッド脇の椅子に座り込んだ。
「……ったく、心配させやがって」
そして安堵と共に、眠っているシェリルを改めて見下ろすと、顔が赤い。頬に触れると、自分の体温よりも随分と熱くて。
「ああ、最近、忙しかったもんな……」
頬に手のひらを当てて、熱を測る。心配するほどの熱ではなさそうだ。そして、手に握っているハートの箱をそっと外す。熱のある手で、こんなふうに握りしめて。
「折角作ったのに、溶けちまうだろ」
でもまあ、食べるのは自分だからいいのだが。それでもきっと、台所をあんなふうにしてまで作ったものが溶けてしまったら、シェリルが悲しむだろう。
ベッドサイドにハートの箱を置いて、そっとストロベリーブロンドの髪を撫でて、アルトは立ち上がると部屋を出た。今は起こさず寝かせておいてやろう。
そしてアルトはキッチンに向かった。そのあまりにもすさまじい有様を見て、思わず笑いが漏れる。片付けをはじめようと思ったが、何故か愛用のエプロンがない。なくてもまあいいかと、アルトは作業を始めた。自分の着替えなど、ここの家にはいくらでも置いてある。
大惨事になっている台所の茶色いコーティングをせっせとはがし、焦げ付いた鍋を洗う。
「チョコレートって、湯煎じゃねーのかよ……」
手順を考えると、何故チョコレートがフライパンとミルクパンと大鍋の中で焦げ付いているのかが理解できないのだが、まあそこはシェリルのやることだ、まともな料理しか作れない自分には想像のつかない事件が起きていたのだろう。
それにしてもその焦げは、鍛え上げているはずの戦闘機乗りの腕でもなかなか剥がれない。それでもこの鍋は、将来を見越して買った高い鍋なのだ。何とか元の美しいステンレスのかがやきを取り戻さねばならない。
「ったく、一生ものの鍋になんてことしやがる……」
そう悪態をつきつつも、自分が選んだ『一生ものの鍋』を、シェリルが使っているというその事実がうれしくて、顔がにやける。
レコーディングが押しに押して、シェリルが家に帰り着いたのはもう明け方で、空の端は藍色に明け始めていた。
「ん……もう。こんな時間……」
先刻から気づいてはいたのだが、どうも熱っぽい。家の鍵を開けながらシェリルは額に手を当てた。ここのところ仕事が立て込んでいて、ろくに休みも取れなかった。少し疲れがたまってきているのかも知れない。
「やーね。体調管理はプロの仕事! もうっ」
自分で自分に言い聞かせながら、シェリルはきりっと男物のエプロンをつけて、台所に立つ。
「そうよ明日はやっともぎ取ったオフなんだから……」
ぶつぶつ言いながらシェリルは、準備してあった材料を調理台に広げた。ここ半月、まったく休みもなくがんばってきたから、このオフはとても楽しみにしていたのだ。久しぶりのアルトとの一日デート。がんばってチョコレートを自分で作って、アルトに渡すのだと決めていた。
「アルト……びっくりするかな……うふふ」
シェリルも自分の料理の腕がどの程度のものであるかは、嫌と言うほど知っていたので、それほど難しいものに挑戦する気はない。チョコレートを溶かして、生クリームを混ぜて、固めるだけ。けれどただそれだけのことが、案の定うまくいかない。
ここ数日ろくに睡眠も取らずにスタジオに詰めていて、もう既に二十四時間以上寝ていないし、どうやらだんだん熱も上がってきているし、そんな状態で滅多にしない料理、しかも簡単なレシピとは言え、それなりに手間のかかるお菓子作りなどをしているので普段は使わない神経を使い、漸くアルトに渡す分のチョコレートを作り終えたときには、台所は大惨事だった。
「あらー……」
大きな製菓用チョコレートをかなりの量買いこんできたはずなのに、何故かまともにできあがったのは、用意していた箱に入れた、ちいさな四粒だけのチョコレート。それでもちゃんと作れた。ひとりで。
「できた……」
疲れと寝不足と熱でぼうっとしながらなんとかラッピングまですませると、そのままハートの形のチョコボックスをきゅっと握りしめて、ふらふらと寝室へ向かった。そしてベッドに倒れ込む。もう限界だ、とりあえず少しだけ休もう。
なんとかシーツをたぐり寄せてくるまる。よく考えたら今自分は多分チョコレートまみれで、きっと明日白いシーツはチョコレートで大変なことになってしまっているだろう。そんなことが頭の隅をよぎったが、もう動けない。頭ががんがん痛んで、喉が渇く。
風邪など、たいしたこともない病気の筈なのに、その真っ最中はなかなかに辛いもので、何故だかとても心細くなる。こんな時、前はずっとグレイスがそばにいてくれたのに。もうグレイスはここにはいない。
そんなことを考えたら、急にぽろぽろ涙が出てきて。
誰もそばにいない。寒い。さみしい。普段はこんなことで泣いたりしないのに。おかしい。けれど涙が止まらない。
「アルト……」
今すぐその声が聞きたかった。けれど携帯電話はリビングのバッグの中。それを取りに行くだけの気力もない。
ハートの形の箱を握ったまましゃくり上げながら、いつしかシェリルは眠りの中に落ちていた。
「……遅い、な」
アルトは待ち合わせ場所の、柱時計を見上げた。
もう待ち合わせの時間を四十分も過ぎている。
シェリルは意外と時間にはきっちりしていて、仕事が押したりして時間がずれてしまうことがあるにはあるが、連絡もなく遅れることなど殆どないのだった。
そのシェリルが、こない。
アルトは携帯を見た。やはり何も連絡も入っていない。
だんだん不安になってくる。何か事件に巻き込まれていないか。事故にでも遭ったのではないか。それか予想もつかないような何ごとかが起きているのではないか。
一度もくもくと心の中に沸き出た暗雲は晴れなくて、アルトはシェリルの携帯に電話をかけながら歩き出した。やはり出ない。携帯を切って走り出す。大通りに出てタクシーを止めて乗り込み、シェリルのマンションの場所を告げた。
タクシーが走るその間も、不安で不安で仕方がない。途中で何かが起きていないかと、窓の外をずっと見続けた。
待ち合わせ場所からシェリルのマンションまではそう遠くはないので、十分ほどで到着し、アルトは支払いを済ませると転がるようにタクシーから飛び出した。オートロックは合い鍵で解除し、エレベーターを待つ間も惜しく階段を駆け上がる。鍵を突っ込み回してドアを開けると、部屋の中からは、甘さと共に何かが焦げたあとのようなにおいがする。
「シェリル!」
中に駆け込むと、リビングに続いているオープンキッチンの惨状が目に入った。
「うっわ」
においの元はこれだとすぐわかった。調理台とコンロが、ところどころ焦げを作りながらまだらにチョココーティングされている。
そしてドアが開いたままの寝室に入ると、シェリルがちいさなハートの形の箱を握りしめて眠っていた。その姿を見つけて、アルトはほっと胸をなで下ろす。
「はー……」
深くためいきをつきながら、アルトはベッド脇の椅子に座り込んだ。
「……ったく、心配させやがって」
そして安堵と共に、眠っているシェリルを改めて見下ろすと、顔が赤い。頬に触れると、自分の体温よりも随分と熱くて。
「ああ、最近、忙しかったもんな……」
頬に手のひらを当てて、熱を測る。心配するほどの熱ではなさそうだ。そして、手に握っているハートの箱をそっと外す。熱のある手で、こんなふうに握りしめて。
「折角作ったのに、溶けちまうだろ」
でもまあ、食べるのは自分だからいいのだが。それでもきっと、台所をあんなふうにしてまで作ったものが溶けてしまったら、シェリルが悲しむだろう。
ベッドサイドにハートの箱を置いて、そっとストロベリーブロンドの髪を撫でて、アルトは立ち上がると部屋を出た。今は起こさず寝かせておいてやろう。
そしてアルトはキッチンに向かった。そのあまりにもすさまじい有様を見て、思わず笑いが漏れる。片付けをはじめようと思ったが、何故か愛用のエプロンがない。なくてもまあいいかと、アルトは作業を始めた。自分の着替えなど、ここの家にはいくらでも置いてある。
大惨事になっている台所の茶色いコーティングをせっせとはがし、焦げ付いた鍋を洗う。
「チョコレートって、湯煎じゃねーのかよ……」
手順を考えると、何故チョコレートがフライパンとミルクパンと大鍋の中で焦げ付いているのかが理解できないのだが、まあそこはシェリルのやることだ、まともな料理しか作れない自分には想像のつかない事件が起きていたのだろう。
それにしてもその焦げは、鍛え上げているはずの戦闘機乗りの腕でもなかなか剥がれない。それでもこの鍋は、将来を見越して買った高い鍋なのだ。何とか元の美しいステンレスのかがやきを取り戻さねばならない。
「ったく、一生ものの鍋になんてことしやがる……」
そう悪態をつきつつも、自分が選んだ『一生ものの鍋』を、シェリルが使っているというその事実がうれしくて、顔がにやける。