嫁に行きましょう
こんなふうに、自分が見ていないところで彼女が焦がした鍋を所懸命磨く羽目になるのなら、もういっそ。
「………………結婚、しよう、とか」
小さな声でつぶやいてみる。
そのあとで急に恥ずかしくなり、アルトは首を振ると再び鍋磨きを始めた。
今はまだ早いと自分でも思うけれど、でもいつか、彼女に言える日が来るだろうか。そんなことを考えるととても幸せな気分になって、しつこい鍋の焦げすらも愛しくなってくる。
「俺、単純だな」
鼻歌など歌いながら鍋を元の美しい色に磨き上げ、キッチンを片付けた。お皿やボウルに残っていたチョコレートの欠片をかき集めると結構な量になり、アルトはそれでガトーショコラなどを作ってみる。こんなにもがんばって自分のためにチョコレートを作ってくれた、シェリルへの感謝の気持ちも込めて。
おそらくシェリルがほんのわずかなチョコレートを作った時間の、その半分以下の時間でガトーショコラを焼き上げ、その出来に満足しながら、アルトはコーヒーを入れた。コーヒーと、乾燥しないようにホイルにつつんだガトーショコラを皿に乗せて、そっとシェリルが眠る寝室に入っていく。
サイドテーブルにコーヒーを置き、アルトはシェリルのそばの椅子に座った。
熱はまだありそうだが、すやすやと立てる寝息は健やかで、安心する。その頬に触れると、シェリルが、ちいさく声を漏らしてかすかに目を開けた。
「あ……悪い、起こしたか?」
アルトが慌てると、シェリルがぼんやりとアルトを見上げる。
「……あると?」
熱のせいで瞳が潤んでいて、微妙に焦点が定まっていない。その、普段と違うシェリルの様子に、どきっとする。そんなアルトの袖を、シェリルがぎゅっと掴んだ。
「どこにも、いっちゃ、や……」
「シェリル」
シェリルが熱い手で、アルトの指を掴んで、自分の頬にあてる。
「だいすき」
そしてアルトの手に頬をすり寄せて、シェリルが、幸せそうに、あどけなく子どものように笑った。
「ずっと、いっしょに、いてね……」
そう言うと、シェリルはまたすっと眠ってしまった。
いつになく潤んだ瞳で、珍しくそんなふうに素直に甘えられて、アルトは脳内で何かが爆発する音を聞いた。
ああ、自分だって、どれだけシェリルと一緒にいたいか。
その想いが自分ひとりのものでないのだとするなら、そんなにうれしいことはない。
ずっと一緒にいたい。片時も離れず、というのは無理だとしても、精神的にも、物理的にも、帰る場所が同じであったらどれだけ幸せなことか。そうしたらこんなふうに、風邪をひいているときにひとりにすることもないし、待ち合わせにこないシェリルのことを心配しながら待たなくてもいい。待ち合わせすらしなくていい。一緒に家を出て、一緒に出かけて、一緒に帰る。それが日常になったら。
「結婚しようか、シェリル」
眠っているシェリルの耳に、アルトはそっとささやいた。返ってくるのは穏やかな寝息だけ。アルトはそっとシェリルに掴まれていた手を外すと、ガトーショコラをつつんでいたアルミホイルの端をちぎってこよりを作った。そしてシェリルの左手を取り、その薬指に銀のこよりを巻き付ける。指輪のように。
そのシェリルの指にはチョコレートがついていて。よく見れば指だけでなく、シーツからのぞく白い肌のあちこちに、ぺたぺたと甘そうにチョコレートが。首筋に、頬に、何故か耳たぶにまで。そしてその、桜色の唇にも。
「どんな風に作ってたんだか」
苦笑しながらアルトは、台所で自分のために悪戦苦闘するシェリルを思い浮かべる。それはもう、想像するだけで愛しくてたまらなくて。思わずアルトは、チョコレートのついた薬指をぺろりとなめた。
「……甘い」
カーテンの隙間からこぼれる光が、シェリルの薔薇色の頬にふりそそぐ。つい誘われるように、耳たぶについたチョコレートを舐め取って、首筋にもちろりと舌を這わせる。
さすがに起こしてしまうかと思ってシェリルの顔を見てみたけれど、お姫様はすやすや眠ったまま。なのにチョコレートのついた半開きの唇が甘そうに誘うから、その誘惑に打ち勝てなくてアルトは、その桜の花びらのような唇にキスをした。
誘い込まれるままに、深く。
「やあだ、アルトってば、あたしの風邪うつっちゃったのね!」
シェリルが、つめたく絞ったタオルをアルトの額に乗せながら言った。
先刻までシェリルが眠っていたベッドには、今はアルトが乗っていて、突然上がった熱にうんうん唸っている。
一眠りして熱も下がってすっきりしたシェリルが目を覚ましたときには、握りしめていたはずのハートの箱は、ベッドのサイドテーブルに置かれていた。そしてその横には甘い香りを漂わせるガトーショコラが。
いつの間にか隣で眠っていたアルトにおはようのキスをしてみたら、アルトの唇は何故かとても甘く。ついでに熱かった。
飛び起きたシェリルがアルトの口の中に体温計を突っ込むと、実に三十八度越え。慌てて氷枕を作り、タオルを冷やして、シェリルは自分がかぶっていた甘いにおいのするシーツを、何もかぶらず寝ていたアルトにひっかぶせた。
「悪いな、シェリル……」
「いいから病人は寝てなさい!」
そうしてアルトを寝かしつけると、シェリルはガトーショコラにフォークを刺し、口に運びながら、複雑な感想を漏らす。
「んーあたしも結構がんばってみたつもりだったんだけど、やっぱりアルトが作ったのがおいしいわ。あんたほんとにいい嫁になるわよ」
「……ああ、いい嫁になるよ、俺……」
普段なら、嫁じゃないだとか何とか言い返すのに、今日に限って妙に素直にそんなことを言うアルトの頬に、シェリルが触れた。
「それにしてもどうしてあんたまで風邪ひいちゃったのかしら……きっとあたしのがうつっちゃったのよね、いつからここに来てたの? ずっと看病してくれていたの? その所為かしら、ごめんね……」
そう言いながらしゅんとするシェリルに、アルトがかすれたがらがら声で言った。
「いや、おまえのせいじゃない。自業自得だから……」
「自業自得?」
目を丸くするシェリルに、いや、なんでもない、とアルトは答えて目を閉じた。