誰にもあげない
「嫌ね。降ってきちゃった」
水滴を落とす、暗い夜空を仰いで、シェリルはスーパーの袋を抱えて足早に夜道を歩いていた。
降り始めた雨は、一瞬で雨足を強くして、あっという間に土砂降りになってしまった。
「……確かにカレンダーでは夏だけど。どうしてフロンティアって、こんなところまで季節に忠実に再現してるわけ? 夏の豪雨なんていらないわ!」
誰もいないのをいいことに、シェリルはぶつぶつと独り言をつぶやきながら歩く。あまりにずぶ濡れになってしまって、こうなってはどれだけ濡れても一緒だと、急ぐのをやめたシェリルは、立ち止まって真っ暗な空を見上げ、目を細めた。
「でも、たまにはこういうのも、いいかしら」
バケツをひっくり返したような大雨。暗い空からふりそそぐ雫を浴びながら、シェリルはくるりと一回転した。濡れた制服が体に纏わりつくけれど、気持ちいいほど思い切り降り注ぐ雨の中、もうそんなことは気にならなかった。
機械化が進んだ故郷の、さまざまな化学物質を含んだ有害な雨とは違って、フロンティアの雨は、どれほど叩きつけるように降ってきていても、どうしてだかやさしく感じられる。初めて嗅ぐ雨の匂い。土と、緑の葉と、見知らぬ花の香を混ぜたような、不思議な。
ここで彼は育ったのか、と、シェリルは思った。青い空を見上げながら、生命の匂いを内包するこの雨にすくすくと育てられ、だから彼はあんなにもやさしいのか。
雨雲の下にいる者に、等しく降り注ぐ雨のように。
誰にでも。
シェリルが編入した、美星学園航宙科は、テストも授業も厳しいことで有名だった。それでもせっかく入ったからには、きっちり単位を取ってちゃんと進級したい。シェリルは必死に時間のやりくりをし、仕事の合間を縫って、できる限り授業にも出席していた。
学校に入った当初は、有名人の興味本位のお遊びだろうと見る者も多かったが、メディアの露出の多さがシェリルの多忙さを物語っているにもかかわらず、それでも学校に来て授業に出ている頻度の高さと、講義を受けている時の彼女の真面目さに、誰もがシェリルの努力を認めないわけにはいかなかった。
この日も、シェリルは仕事が終わったあと、そのまま学園に直行し、図書室の片隅に陣取って、試験勉強に励んでいた。
学園の廊下を歩いていれば、そこかしこからラブコールが飛んでくるし、スクール水着でプールに現れれば山ほどのギャラリーがフェンスごしに鈴なり、という有様だったが、図書室は、勉強目的以外での入室は禁じられていたし、少しでも騒ごうものならすぐに追い出される。だからここでは、シェリルも静かに勉強することができるのだった。
山ほどの資料に埋もれ、それでも解けない問題集を前にうんうん唸って数時間。窓からふりそそぐ夕陽の中、いきなり教科書に影が落ち、シェリルは顔を上げた。
「がんばってるな」
「……アルト」
アルトが、ごく自然な仕草で椅子を引き、シェリルの前の席に座る。そして、コピーした紙の束を鞄の中から出した。
「なあに、これ?」
「おまえが授業に来れなかった日のノート。クラスの奴らがノートをコピーして、要点とかをまとめておいてくれたんだ」
「え……」
「みんな、おまえが努力してるの知ってるからさ。クラスの仲間ががんばってたら、応援したくなるだろ?」
「仲間……?」
「そうだろ。ひとつの教室で、机を並べて、一緒に勉強してるんだから」
アルトの手からその紙束を受け取って、ぱらぱらと捲ると、授業中のノートのコピーに、たくさんの人のいろんな筆跡で、授業内容とポイントが書かれていた。それを見ていたら思わず涙ぐみそうになって。気づかれないように慌てて、目の端をこすった。
「……や、やーねもう、みんなにここまでしてもらったらあたし、赤点とか取るわけには行かないじゃないの!」
「そうだろ。どこかわからないところあるか? 見てやるよ」
「あ、アルトのくせに生意気ね、あたしに勉強教えるなんて……」
「おまえな。あんまり可愛くない態度ばっかり取ってると教えてやんねーぞ」
「可愛くないって何よ!」
思わず大きな声をあげると、アルトが、くちもとに人差し指をあてて、抑えた声で言った。
「シェリル、図書館で叫ぶな」
「あ……」
慌てて口を押さえ、シェリルは辺りを見回した。
「ほら、あと一時間で図書館も閉まるぞ。いいからわからないところ出せ。あるんだろ」
「うん……」
シェリルはおとなしく、解けなかった問題が書いてあるページを開いて、アルトに差し出した。
結局シェリルの勉強は、図書館の閉館時間までに終わらず。アルトとシェリルは、並んで学校の門を出た。
「明日からもうテストなのに、終わらなかったな」
「まあね。あとは帰ってやってみる。みんなが書いてくれたノートもあるしね」
「でもわからないだろ、ひとりでやっても」
「何とかするわ」
今日は徹夜してでも範囲を終わらせようと、シェリルは心の中で思っていた。クラスメートたちがここまでしてくれたのだから。それに応えられず、単位を落とすなんてできない。
「しょうがないな、うちに来るか?」
「え?」
アルトの唐突な言葉に、シェリルは目をまるくした。
「うちって、S.M.Sの寮?」
「寮に部外者を入れられるわけないだろ。S.M.Sに入る前から借りてたアパート」
「え、だって……」
以前アルトの住んでいたアパートの話が出たときに、興味本位で、ルカやミシェルたちと一緒に、アルトの部屋に行きたいと言ったことがあった。そのときは、寮に入ってからろくに帰ってないから、散らかっていて人が入れるようなところじゃない、大体人の家に来て何がおもしろいんだ、と全員まとめてにべもなく断られたのだが。
「前も言ったように、滅多に帰ってないから掃除もしてないけど、テーブルはあるから、拭けば勉強くらいはできる。来るか?」
「う、うん」
アルトの部屋。入れてもらえるんだ、と思うと、胸がどきどきした。
「言っとくけど、ほんとにきれいじゃないからな、男のひとり暮らしの部屋なんて」
「別に構わないわ、そんなの。……ねえ、今までにも、他にも誰かを、こうしてあんたの部屋に呼んだりしたの?」
ランカちゃんとか。と、その言葉だけは何とか飲み込み、シェリルは聞いた。
「いや。狭いし、そもそも人を呼べるような部屋じゃない。……って悪いな、そんな部屋に」
ついほっと胸をなで下ろしながら、シェリルはくすっと笑った。自分でも可笑しいほどに気にしている。あの子のことを。
「ふふん。あたしが今泊まってるスイートルームと比べれば、鶏小屋でもお屋敷でもどこでも一緒よ。気にしないで」
「鶏小屋って。おまえ本当に失礼な奴だな」
「誰もあんたの部屋が鶏小屋だなんて言ってないじゃない」
そして平然と、あまりに色気なく誘われて、シェリルは思う。アルトは自分の「男のひとり暮らしの部屋」に、女の子を連れ込もうとしていることに気づいていないのだろうか。きっと気づいていないだろう。馬鹿馬鹿しくなるほどにこの男は鈍感なのだから。
水滴を落とす、暗い夜空を仰いで、シェリルはスーパーの袋を抱えて足早に夜道を歩いていた。
降り始めた雨は、一瞬で雨足を強くして、あっという間に土砂降りになってしまった。
「……確かにカレンダーでは夏だけど。どうしてフロンティアって、こんなところまで季節に忠実に再現してるわけ? 夏の豪雨なんていらないわ!」
誰もいないのをいいことに、シェリルはぶつぶつと独り言をつぶやきながら歩く。あまりにずぶ濡れになってしまって、こうなってはどれだけ濡れても一緒だと、急ぐのをやめたシェリルは、立ち止まって真っ暗な空を見上げ、目を細めた。
「でも、たまにはこういうのも、いいかしら」
バケツをひっくり返したような大雨。暗い空からふりそそぐ雫を浴びながら、シェリルはくるりと一回転した。濡れた制服が体に纏わりつくけれど、気持ちいいほど思い切り降り注ぐ雨の中、もうそんなことは気にならなかった。
機械化が進んだ故郷の、さまざまな化学物質を含んだ有害な雨とは違って、フロンティアの雨は、どれほど叩きつけるように降ってきていても、どうしてだかやさしく感じられる。初めて嗅ぐ雨の匂い。土と、緑の葉と、見知らぬ花の香を混ぜたような、不思議な。
ここで彼は育ったのか、と、シェリルは思った。青い空を見上げながら、生命の匂いを内包するこの雨にすくすくと育てられ、だから彼はあんなにもやさしいのか。
雨雲の下にいる者に、等しく降り注ぐ雨のように。
誰にでも。
シェリルが編入した、美星学園航宙科は、テストも授業も厳しいことで有名だった。それでもせっかく入ったからには、きっちり単位を取ってちゃんと進級したい。シェリルは必死に時間のやりくりをし、仕事の合間を縫って、できる限り授業にも出席していた。
学校に入った当初は、有名人の興味本位のお遊びだろうと見る者も多かったが、メディアの露出の多さがシェリルの多忙さを物語っているにもかかわらず、それでも学校に来て授業に出ている頻度の高さと、講義を受けている時の彼女の真面目さに、誰もがシェリルの努力を認めないわけにはいかなかった。
この日も、シェリルは仕事が終わったあと、そのまま学園に直行し、図書室の片隅に陣取って、試験勉強に励んでいた。
学園の廊下を歩いていれば、そこかしこからラブコールが飛んでくるし、スクール水着でプールに現れれば山ほどのギャラリーがフェンスごしに鈴なり、という有様だったが、図書室は、勉強目的以外での入室は禁じられていたし、少しでも騒ごうものならすぐに追い出される。だからここでは、シェリルも静かに勉強することができるのだった。
山ほどの資料に埋もれ、それでも解けない問題集を前にうんうん唸って数時間。窓からふりそそぐ夕陽の中、いきなり教科書に影が落ち、シェリルは顔を上げた。
「がんばってるな」
「……アルト」
アルトが、ごく自然な仕草で椅子を引き、シェリルの前の席に座る。そして、コピーした紙の束を鞄の中から出した。
「なあに、これ?」
「おまえが授業に来れなかった日のノート。クラスの奴らがノートをコピーして、要点とかをまとめておいてくれたんだ」
「え……」
「みんな、おまえが努力してるの知ってるからさ。クラスの仲間ががんばってたら、応援したくなるだろ?」
「仲間……?」
「そうだろ。ひとつの教室で、机を並べて、一緒に勉強してるんだから」
アルトの手からその紙束を受け取って、ぱらぱらと捲ると、授業中のノートのコピーに、たくさんの人のいろんな筆跡で、授業内容とポイントが書かれていた。それを見ていたら思わず涙ぐみそうになって。気づかれないように慌てて、目の端をこすった。
「……や、やーねもう、みんなにここまでしてもらったらあたし、赤点とか取るわけには行かないじゃないの!」
「そうだろ。どこかわからないところあるか? 見てやるよ」
「あ、アルトのくせに生意気ね、あたしに勉強教えるなんて……」
「おまえな。あんまり可愛くない態度ばっかり取ってると教えてやんねーぞ」
「可愛くないって何よ!」
思わず大きな声をあげると、アルトが、くちもとに人差し指をあてて、抑えた声で言った。
「シェリル、図書館で叫ぶな」
「あ……」
慌てて口を押さえ、シェリルは辺りを見回した。
「ほら、あと一時間で図書館も閉まるぞ。いいからわからないところ出せ。あるんだろ」
「うん……」
シェリルはおとなしく、解けなかった問題が書いてあるページを開いて、アルトに差し出した。
結局シェリルの勉強は、図書館の閉館時間までに終わらず。アルトとシェリルは、並んで学校の門を出た。
「明日からもうテストなのに、終わらなかったな」
「まあね。あとは帰ってやってみる。みんなが書いてくれたノートもあるしね」
「でもわからないだろ、ひとりでやっても」
「何とかするわ」
今日は徹夜してでも範囲を終わらせようと、シェリルは心の中で思っていた。クラスメートたちがここまでしてくれたのだから。それに応えられず、単位を落とすなんてできない。
「しょうがないな、うちに来るか?」
「え?」
アルトの唐突な言葉に、シェリルは目をまるくした。
「うちって、S.M.Sの寮?」
「寮に部外者を入れられるわけないだろ。S.M.Sに入る前から借りてたアパート」
「え、だって……」
以前アルトの住んでいたアパートの話が出たときに、興味本位で、ルカやミシェルたちと一緒に、アルトの部屋に行きたいと言ったことがあった。そのときは、寮に入ってからろくに帰ってないから、散らかっていて人が入れるようなところじゃない、大体人の家に来て何がおもしろいんだ、と全員まとめてにべもなく断られたのだが。
「前も言ったように、滅多に帰ってないから掃除もしてないけど、テーブルはあるから、拭けば勉強くらいはできる。来るか?」
「う、うん」
アルトの部屋。入れてもらえるんだ、と思うと、胸がどきどきした。
「言っとくけど、ほんとにきれいじゃないからな、男のひとり暮らしの部屋なんて」
「別に構わないわ、そんなの。……ねえ、今までにも、他にも誰かを、こうしてあんたの部屋に呼んだりしたの?」
ランカちゃんとか。と、その言葉だけは何とか飲み込み、シェリルは聞いた。
「いや。狭いし、そもそも人を呼べるような部屋じゃない。……って悪いな、そんな部屋に」
ついほっと胸をなで下ろしながら、シェリルはくすっと笑った。自分でも可笑しいほどに気にしている。あの子のことを。
「ふふん。あたしが今泊まってるスイートルームと比べれば、鶏小屋でもお屋敷でもどこでも一緒よ。気にしないで」
「鶏小屋って。おまえ本当に失礼な奴だな」
「誰もあんたの部屋が鶏小屋だなんて言ってないじゃない」
そして平然と、あまりに色気なく誘われて、シェリルは思う。アルトは自分の「男のひとり暮らしの部屋」に、女の子を連れ込もうとしていることに気づいていないのだろうか。きっと気づいていないだろう。馬鹿馬鹿しくなるほどにこの男は鈍感なのだから。