pair cups.
「明日も早いんでしょ、ちゃんと夜は帰りなさいよ」
「ああ」
新鮮な食材の入った袋を抱えて、アルトはシェリルと歩いていた。今は殆どの物資が配給制になっていて、このような物を手に入れるのは一苦労だった。それでも病気の所為か、近頃食が細っているシェリルに、手料理を食べさせてやりたくて。アルトは兄弟子を頼り、実家のつてを辿ってそれらを手に入れた。
歌舞伎をやめて家を飛び出してから、今まで実家に近寄ることすらしなかったアルトにとって、実家の敷居というのは実に高いものになっていた。けれどそれも、シェリルのために簡単に乗り越えた。
S.M.Sが離反しフロンティアを離れてから数日後。アルトは家を出て以来初めて、実家の母屋で、父親と向かい合い言葉を交わした。シェリルを預かっていてくれたことに対する礼を言い、家を出てからのことと現在のこと、そしてこれからどうしたいのかを、父に話した。
自分でも驚くほどに、心は落ち着いていた。漸くすべての迷いが消えたのだと思った。そのきっかけを与えてくれたのは、ランカであり、オズマであり、ミシェルであり、そしてシェリルだった。
いつでも自分は、愛され、支えられ、護られていた。そのことに気づかされた。
そしてアルトは今初めて、自己満足ゆえでなく、真に護りたいと思う、そんな存在を得ていた。
さらりと音を立ててこぼれ落ちてゆく砂のように、そう遠くない未来に、手のひらから失われることを知っていてもなお、誰よりもそばにいて、支えたいと願わずにはいられない相手が。
「あら、可愛い!」
道沿いのショーウインドウを見て、シェリルが吸い込まれるようにその店の中に入っていくのを、アルトが苦笑しながら追いかける。
「ねえ、アルト、このマグカップ可愛いと思わない?」
シェリルが手に取ったのは、可愛らしいピンクのマグカップ。色違いで同じものが何種類も並んでいる。
「ああ」
早乙女邸の離れから、サンフランシスコエリアにあるマンションに移ったのが一昨日のこと。そのマンションは、家具も食器も調理器具も、挙げ句の果てには石鹸やシャンプーなどの消耗品まで、何もかもがそろっていて、まるでホテルのようだった。
そしてそこのつかの間の主となったシェリルは、確かに自分の持ち物というものを殆ど持っておらず、彼女のボストンバッグに入っていたのは、数枚のお気に入りの服と化粧品、それに財布と携帯電話くらいのもので、まるでそこをすぐに去ってしまうことを前提に、船団を渡り歩く身軽な旅人のようだった。そして考えてみれば、シェリルはもともとそのつもりでフロンティアを訪れたのでしかなかったのだと思い当たる。
「買ってやるよ」
「え?」
「それ。気に入ったんだろ?」
「……いいわよ、部屋に必要なものは全部そろってるし」
確かに食器の類は、不足なくそろっている。それはどうやら高級メーカーのものであるらしいのだが、アルトから見れば、ただの真っ白な個性のない同じ顔をしたものばかり。
それと比べて、シェリルが今手にしているカップは、彼女が選んだのがわかるだけの個性がある。
「おまえが選んだものがある方がいいだろ。で、俺のは」
「アルトの?」
きょとんとしてシェリルが、アルトを見上げた。
「俺の。普通こういうのは色違いで同じものを揃えるもんだろ」
「えっ、な、なんでペアカップなのよ」
シェリルが突然頬を赤らめて慌てるので、アルトも恥ずかしくなってきた。
「うるせーな、いいからほら、いっぱい色違いあるんだから。……俺だけあの真っ白なカップじゃ、淋しいだろ」
「う、うん……」
恥ずかしげにシェリルがうつむいたあと、じゃあこれ、と言って手に取ったのは、同じ柄で色違いの、青いマグカップだった。
カップをふたつ買って店を出ると、空が夕焼けに染まっていた。
「わ、きれいね……」
シェリルがつぶやいて足を止める。
作り上げた空の色は、ただの人工の色に過ぎない筈なのに、その燃えるようなタンジェリンがシェリルの頬をあかるく染めあげる。まっすぐ空に向けられた、シェリルの空色の瞳にも橙の光が宿り、その横顔の美しさに、わずかの間アルトは見惚れていた。
「ギャラクシーでは、こんな夕陽を見ることなんてできなかったから」
そう言いながらシェリルが、夕焼けに手を翳した。その手のひらが光に照らされて赤く透ける。それは確かにその体を今も流れている血の色。息づく命の色。
「それでも、偽物の空だぜ?」
「偽物でも構わないわ、フロンティアを創った人が、その天蓋に空を映し出したいと願った夢は本物よ。美しいものが見たかったのよ」
「……美しいもの、か」
「そう。あなただって知ってるでしょう。人はだれでも、美しいものを見たい、それを夢っていうの。だから人は夢に囚われ続けるのよ。アルトが空を飛びたがり、あたしが歌っていたいと願うように」
「ああ……」
たかだか二千メートルの空。嘗て自分はそう思っていた。今、パイロットとして自分はその二千メートルを軽々と飛び越えて、真空の宇宙を飛んでいる。空なき空を。
自分が望んだことは何だったのだろう。幼い頃、母と見上げた空。その青い空を飛びたかった。けれど本当は、ただ自由を欲しただけだったのかも知れない。自分が他の何ものでもないという確信、それが自由というのだと、アルトは今はそう思っている。それはシェリルを見て知ったことだ。
私はシェリル・ノームなのよ。
そう彼女が言うごとに、思い知らされる。
確かにそれは彼女の強がりかも知れない、否、確実にそういう一面はあるだろう。それでも、シェリルは言う。私はシェリル、と。自分が自分以外のなにものでもないのだと。
長いこと、グレイスに愛され育まれていたのだと錯覚させられていた過去は、裏切りにより葬られ、そして同時に、治癒の望めない病を宣告されて未来を失い。シェリル・ノームという存在自体が偶像であるのではないかと疑い、一度は歌すらも捨てると言うほどに追いつめられて。それでも彼女は歌を取り戻した。
そうしてシェリルは他の何に縋ろうともせず、ただ自分が自分であることを拠り所にして、自分の足で立ち上がろうとする。
「グレイスは」
不意に、シェリルが言ったその名を耳にして、アルトが反射的に顔をこわばらせる。
「あのひとは、どんな夢を見ていたのかしら」
「シェリル」
「あたしをスラムのストリートから拾い上げて、歌う場所をくれた。その何もかもが、彼女の陰謀のひとつの欠片でしかなかったのかもしれない。だけどあたしはまだ答えをもらっていないの。あの時グレイスに、何故、と、そう聞いた答え。グレイスが言ったことがあまりに衝撃的だったから、聞くのを忘れたの、どこに行きたくて、どんな夢を見て、今グレイスがそこにいるのかを」
「そんなこと、聞いたってわかるもんか……!」
アルトは思わずシェリルの肩を掴んでいた。
「おまえをこんな目に遭わせて傷つけた、そんな奴の話をするのはやめろよ、理解できる筈がない、あんな……」
アルトの言葉に、シェリルは微笑んだ。
「ああ」
新鮮な食材の入った袋を抱えて、アルトはシェリルと歩いていた。今は殆どの物資が配給制になっていて、このような物を手に入れるのは一苦労だった。それでも病気の所為か、近頃食が細っているシェリルに、手料理を食べさせてやりたくて。アルトは兄弟子を頼り、実家のつてを辿ってそれらを手に入れた。
歌舞伎をやめて家を飛び出してから、今まで実家に近寄ることすらしなかったアルトにとって、実家の敷居というのは実に高いものになっていた。けれどそれも、シェリルのために簡単に乗り越えた。
S.M.Sが離反しフロンティアを離れてから数日後。アルトは家を出て以来初めて、実家の母屋で、父親と向かい合い言葉を交わした。シェリルを預かっていてくれたことに対する礼を言い、家を出てからのことと現在のこと、そしてこれからどうしたいのかを、父に話した。
自分でも驚くほどに、心は落ち着いていた。漸くすべての迷いが消えたのだと思った。そのきっかけを与えてくれたのは、ランカであり、オズマであり、ミシェルであり、そしてシェリルだった。
いつでも自分は、愛され、支えられ、護られていた。そのことに気づかされた。
そしてアルトは今初めて、自己満足ゆえでなく、真に護りたいと思う、そんな存在を得ていた。
さらりと音を立ててこぼれ落ちてゆく砂のように、そう遠くない未来に、手のひらから失われることを知っていてもなお、誰よりもそばにいて、支えたいと願わずにはいられない相手が。
「あら、可愛い!」
道沿いのショーウインドウを見て、シェリルが吸い込まれるようにその店の中に入っていくのを、アルトが苦笑しながら追いかける。
「ねえ、アルト、このマグカップ可愛いと思わない?」
シェリルが手に取ったのは、可愛らしいピンクのマグカップ。色違いで同じものが何種類も並んでいる。
「ああ」
早乙女邸の離れから、サンフランシスコエリアにあるマンションに移ったのが一昨日のこと。そのマンションは、家具も食器も調理器具も、挙げ句の果てには石鹸やシャンプーなどの消耗品まで、何もかもがそろっていて、まるでホテルのようだった。
そしてそこのつかの間の主となったシェリルは、確かに自分の持ち物というものを殆ど持っておらず、彼女のボストンバッグに入っていたのは、数枚のお気に入りの服と化粧品、それに財布と携帯電話くらいのもので、まるでそこをすぐに去ってしまうことを前提に、船団を渡り歩く身軽な旅人のようだった。そして考えてみれば、シェリルはもともとそのつもりでフロンティアを訪れたのでしかなかったのだと思い当たる。
「買ってやるよ」
「え?」
「それ。気に入ったんだろ?」
「……いいわよ、部屋に必要なものは全部そろってるし」
確かに食器の類は、不足なくそろっている。それはどうやら高級メーカーのものであるらしいのだが、アルトから見れば、ただの真っ白な個性のない同じ顔をしたものばかり。
それと比べて、シェリルが今手にしているカップは、彼女が選んだのがわかるだけの個性がある。
「おまえが選んだものがある方がいいだろ。で、俺のは」
「アルトの?」
きょとんとしてシェリルが、アルトを見上げた。
「俺の。普通こういうのは色違いで同じものを揃えるもんだろ」
「えっ、な、なんでペアカップなのよ」
シェリルが突然頬を赤らめて慌てるので、アルトも恥ずかしくなってきた。
「うるせーな、いいからほら、いっぱい色違いあるんだから。……俺だけあの真っ白なカップじゃ、淋しいだろ」
「う、うん……」
恥ずかしげにシェリルがうつむいたあと、じゃあこれ、と言って手に取ったのは、同じ柄で色違いの、青いマグカップだった。
カップをふたつ買って店を出ると、空が夕焼けに染まっていた。
「わ、きれいね……」
シェリルがつぶやいて足を止める。
作り上げた空の色は、ただの人工の色に過ぎない筈なのに、その燃えるようなタンジェリンがシェリルの頬をあかるく染めあげる。まっすぐ空に向けられた、シェリルの空色の瞳にも橙の光が宿り、その横顔の美しさに、わずかの間アルトは見惚れていた。
「ギャラクシーでは、こんな夕陽を見ることなんてできなかったから」
そう言いながらシェリルが、夕焼けに手を翳した。その手のひらが光に照らされて赤く透ける。それは確かにその体を今も流れている血の色。息づく命の色。
「それでも、偽物の空だぜ?」
「偽物でも構わないわ、フロンティアを創った人が、その天蓋に空を映し出したいと願った夢は本物よ。美しいものが見たかったのよ」
「……美しいもの、か」
「そう。あなただって知ってるでしょう。人はだれでも、美しいものを見たい、それを夢っていうの。だから人は夢に囚われ続けるのよ。アルトが空を飛びたがり、あたしが歌っていたいと願うように」
「ああ……」
たかだか二千メートルの空。嘗て自分はそう思っていた。今、パイロットとして自分はその二千メートルを軽々と飛び越えて、真空の宇宙を飛んでいる。空なき空を。
自分が望んだことは何だったのだろう。幼い頃、母と見上げた空。その青い空を飛びたかった。けれど本当は、ただ自由を欲しただけだったのかも知れない。自分が他の何ものでもないという確信、それが自由というのだと、アルトは今はそう思っている。それはシェリルを見て知ったことだ。
私はシェリル・ノームなのよ。
そう彼女が言うごとに、思い知らされる。
確かにそれは彼女の強がりかも知れない、否、確実にそういう一面はあるだろう。それでも、シェリルは言う。私はシェリル、と。自分が自分以外のなにものでもないのだと。
長いこと、グレイスに愛され育まれていたのだと錯覚させられていた過去は、裏切りにより葬られ、そして同時に、治癒の望めない病を宣告されて未来を失い。シェリル・ノームという存在自体が偶像であるのではないかと疑い、一度は歌すらも捨てると言うほどに追いつめられて。それでも彼女は歌を取り戻した。
そうしてシェリルは他の何に縋ろうともせず、ただ自分が自分であることを拠り所にして、自分の足で立ち上がろうとする。
「グレイスは」
不意に、シェリルが言ったその名を耳にして、アルトが反射的に顔をこわばらせる。
「あのひとは、どんな夢を見ていたのかしら」
「シェリル」
「あたしをスラムのストリートから拾い上げて、歌う場所をくれた。その何もかもが、彼女の陰謀のひとつの欠片でしかなかったのかもしれない。だけどあたしはまだ答えをもらっていないの。あの時グレイスに、何故、と、そう聞いた答え。グレイスが言ったことがあまりに衝撃的だったから、聞くのを忘れたの、どこに行きたくて、どんな夢を見て、今グレイスがそこにいるのかを」
「そんなこと、聞いたってわかるもんか……!」
アルトは思わずシェリルの肩を掴んでいた。
「おまえをこんな目に遭わせて傷つけた、そんな奴の話をするのはやめろよ、理解できる筈がない、あんな……」
アルトの言葉に、シェリルは微笑んだ。
作品名:pair cups. 作家名:桜沢麗奈