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pair cups.

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「そうね。きっとあんたの言う通り、理解できるはずがない。わからないわ。……だけどアルト、本当にわずかほども愛されていなかったと、あのやさしさが全部嘘だったと思えるなら、きっとこんなふうに、苦しくはならないの。胸が痛んだりはしないのよ」

 そう言いながらシェリルは、きゅっと胸元を掴んだ。

「……グレイスを恨む気持ちがまったくないと言ったら嘘になる。だけど今は、思い出せば確かに少しは苦しいけれど、それでも前ほど心が波立ったりはしないの」

 シェリルは目を閉じた。まるで、涙を堪えるように。だからアルトはなにも言わずに、ただそんなシェリルを見つめていた。暫くの沈黙のあと、シェリルはわずかに濡れた睫毛をゆらし、目をあけて、そしてついとその瞳をアルトに向けて微笑む。

「あたしは歌うだけ。今はね、この歌が何かの役に立つとかそんなことはどうでもいいの。アルトが言ってくれたのよ、あたしが歌を捨てられるはずがない、そうでなきゃ、あたしの歌があれほど多くの人に届くはずがない、って。……その言葉があったから、あの時あたしは歌えたの。もう二度と歌えないと思っていた、あたしに歌を取り戻させてくれた」

「シェリル……」

 シェリルのその青い瞳に映るのは、ただまっすぐな希望。その目には悲しみも憎しみもなく、ただ青い空のように透き通っていて。何故、と問いたくなる。

 アルトは憎んでいた。シェリルをこんな目に遭わせたグレイスのことを。なのに当のシェリルは怨みごとのひとつも言わない。それを口に出すまいと我慢している風でもなく、心の奥底に憎しみを押し込めているわけでもない。

 自分には歌しかない、そう言ったシェリルは、フロンティアを去ったランカの代わりに歌うことを請われ、その歌さえも道具として使われるだけと理解していながら、淡々とその要請も受け入れた。

 シェリルが何を思っているのか、ほんとうのところはアルトにもわからない。彼女は、その想いをひとりきり心の中にしまい込むことに慣れすぎている。だから思うことがあってもただ口にしないだけなのか、それとも真に彼女の心の中に、どのような恨みも存在していないのか。それすらもわからない。

 けれど空を見上げる彼女の横顔はあまりにも清廉で、その心の奥に醜い感情が渦巻いているようには、どうしても見えなかった。

 そのシェリルが、微笑んだまま、かすかに目を細めて、アルトに言った。

「アルト、そのカップ、あたしがいなくなったら、あんたにあげるわ」

「シェリル」

「持ち物は増やしたくなかったの、多分それほど長く使わないし。でもカップのふたつくらいなら……アルト?」

 アルトは思わずシェリルの細い体を抱きしめていた。胸を突く絶望に襲われて。

「……いなくなったら、なんて、平然と言わないでくれ」

 シェリルのストロベリーブロンドに顔を埋めて、アルトは言った。ふわりと花の香りが鼻を擽る。それは確かに今ここにあるのに、こんなふうにしっかりと抱きしめることができるのに、そう遠くない未来に、確実に失われるものなのだとは信じたくなくて。

「アルト」

 シェリルがそっと、アルトの背に腕をまわした。その温度が伝わってくる。

「怖がらないで、そして目を背けないで」

 その声はやさしく、柔らかかったが、それでも毅然として、アルトが見たくない現実に、しっかりと引き戻そうとする。

「わかる? あたしはあきらめているわけでも悲観してるわけでもないわ。確かにあたしに、そう長い未来は残されていない。でもね、今を生きることだけが、明日を生きることに繋がるの。――あたしは、生きているのよ」

 はっとしてアルトは、シェリルをきつく抱きしめていた腕をほどいた。

「シェリル」

 シェリルが笑う。その顔を見てアルトは理解した。何かを恨んだり、憎んだりすることより、ただ彼女は未来に向かうことを選んだのだと。

 残り少ない時間を、未来のために使うことを選んだだけなのだと。

「あたしには歌しかないって思った。けれど違うわね。どんなに打ち拉がれても、絶望しても、あたしには歌があったのよ。あたしは歌うわ、……だから、そばにいて」







 手の込んだ夕食を作り、ふたりで乾杯をして。まるでままごとのような晩餐のあと、酔って眠ったシェリルをベッドに運んだ。

 それからアルトは後片付けを済ませると、ダイニングの椅子に座り、ひと息ついた。

 見渡せば目に入るのは、用意されたそのままの、何もいじってない、個性を感じさせない殺風景な部屋。殆ど何も自分のものがおいてない。カーテンのひとつでも、自分の好みの物に変えればいいのに、シェリルは頑なに、この部屋に、自分がいる痕跡を残そうとはしない。

 テーブルの上に置いてあるのは、ふたつの色違いのマグカップ。ピンクのカップには、結局彼女が口をつけなかった食後のコーヒーが残っていた。シェリルのリクエストに応えて、ミルクたっぷりで甘いコーヒーを入れたのに。まったく飲んでいないのももったいないと、アルトはシェリルのカップに入った、冷め切ったコーヒーを飲む。

『帰っちゃだめよ、ずっとそばにいなさい……』

 シェリルがアルトの耳元で囁いた。その声がずっと耳に残っている。夕方、家に帰って来るときは、明日があるからちゃんと帰れなどと言っていたのに。

 シェリルが酔っ払ったところなど、今まで見たことがなかった。大体、シェリルは簡単に、他人にそんな隙を見せたりはしない。

 アルトと名実ともに「恋人同士」になって、漸く心をゆるしたのだろうか。或いは酔っぱらいでもしない限り、人に甘えて縋ることなどできないから、あんな飲み方をしてみたのか。

 容易に素直になれない彼女の心の奥底で、せめぎ合う想いが見える。アルトに寄りかかりたいという思いと、そんな甘えを否定し、自身を戒めようとする気持ち。

 もっと簡単に甘えてくれればいいのにとアルトは思う。それともそれができないほど、自分は未熟で、頼りなく見えるのだろうか。

 もしかしたらずっと自分は、今までただ流されてきたのかもしれない。家を出てパイロットを目指し、S.M.Sに入り。そうして自分の進む道を選び取ったつもりでいながら、ただその場の状況が示唆するものを、最善のものだと思い込んでいただけ。

 S.M.Sの離反。フロンティアを単身去ったランカ。誰もが自分の道を選び取り進んでいる。

 フロンティアを離脱しようとしたクォーターを追ったあの時、流されているだけじゃないのかとオズマに問われた後、アルトは考えた。シェリルのそばにいることを選んだ理由を。混乱を極めてゆく状況の中、絶望と対峙し、死の恐怖にふるえる彼女を放っておけなかったというだけなのかと。

 けれど、違う、と、今アルトははっきり言い切れる。

 確かにあの時、シェリルに対して、同情心のようなものをわずかほども抱かなかったとは言いきれない。シェリルの今置かれた状況と、その心情を慮れば、どうしようもなく切なくて辛かった。それでもそばにいて、支えになりたいと願ったのは、同情だけが理由などではありえなかった。
作品名:pair cups. 作家名:桜沢麗奈