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pair cups.

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 自分はかつて、一歩ずつ死に近づいてゆく母を、そばにいて見守った。だから死に臨む者に寄り添うことが、どれほどに辛いことなのだかを身をもって知っている。それはとても、同情だけで成せるものではない。

 誰よりも強く美しい、高みでかがやく眩い星のような彼女が、初めて内側の脆さを見せたあの夜に、心からシェリルを望んだ。愛しくてたまらなかった。何もかもを失いながら、自分にはもう歌しかないのだと、そう言って悲壮な決意を固める彼女のそばにいたいと願った。

 思えばそれが、初めて自分が心から何かを求めて、下した選択だったのかも知れない。

 家を出て空に憧れ、パイロットを目指しながらも、何故かずっと煮え切らない思いを捨てきれなかった。何がしたいのかが本当にはわからずに、何もかもに迷っていた。そんな時に、シェリルに出会った。

『あたしはあきらめない、運命って言うのはそうやってつかみ取るものなのよ!』

 その言葉が忘れられなかった。

 その後幾度も会った、彼女はまるで、極光を纏ってかがやく星のようだった。見るたびに違う色をして、母なる地球のその北の空に君臨し、瞬くのだという変光星。

 シェリルの病気のことをクランに聞かされ、彼女の元へ走ったあの夜、確かにシェリルは自分を求めた。張りつめたものが破れたかのように。

 けれど彼女に求められたのは、もう傷つかぬようにと護ってくれるやさしい手ではなく、心癒す言葉でもなく、ただそばにいることだけ。そしてその心の根幹を、わずかに温めること、それだけだった。それさえあれば、あとは自分で走れると。

 そんなシェリルに、最後までそばにいる、とアルトは誓った。漸く自分の道を選び取り、定めたと思った。

 そして近頃思う。そばにいる、とはどのようなことをいうのだろうかと。

 それはきっと、ただ物理的にとなりにいればいいのだということではない。溺れるほどに愛の言葉を囁けばいいというわけでも。

 過去も未来も失って、それでもシェリルは歌い続ける。それだけが自分の生きた証だと彼女は言う。容易く移ろいゆく不確かなこの世界に、シェリルは全霊で自分の歌を刻み込む。永劫の未来にまで届けと言わんばかりに。

 だからきっと自分も、そうしてただ前を向いて全力で駆け抜けようとする彼女のそばにいて走ること、それが自分の役目だ。同じだけの力で、早さで、自分もまた自分の目的に向かって走らなければならない。

 少しでも迷って立ち止まってしまえば、きっとシェリルに置いていかれてしまう。彼女と引き合うだけの力を自分が持てなければ、天の高みにまでひとりで上り詰めて彼女は、またひとりきりになってしまう。そんなのは嫌だ。シェリルをもうひとりにはさせない。絶対に。

 アルトは目を閉じて、深く息をついた。そのとき。

「……ん……」

 寝室からかすかに声がした。アルトが慌てて立ち上がり、寝室のドアを開ける。

「シェリル」

 眠りの中にいるシェリルの額に、玉のような汗が浮かんでいた。起きているときはそうそう苦痛を口にしたりはしない彼女も、眠っているときにはその箍が緩んでしまうのか、浅く途切れる呼吸の中、苦しげな囈言がその唇から洩れる。そのシェリルの手を、アルトはそっと握った。熱い手。もうずっと、彼女の熱が引くことはなくて、それが完全に日常化してしまっている。

 きつく眉根を寄せたシェリルの目蓋にそっとくちづけを落として、アルトは祈るように目を閉じた。なにもできないのにただそばにいるということの辛さを、こうして夜ごと思い知らされる。

 どんな状況に合っても強く在りたいと願い、希望を捨てずに暗黒の未来へと踏み出す、その眩い姿は、シェリルがそう在りたいと願ったもの。

 けれど毎夜、眠ればもう二度と目ざめないかも知れないと怯え、ひとりベッドの中でふるえる、そんな姿も、確かにシェリルなのだった。

「……ん……アル、ト……?」

 掠れた声と共に、ゆっくりと開く目蓋の下から、空の色をした瞳がうっすらと覗く。

「シェリル、……悪い、起こしたか?」

 そう言いながら握った手をほどこうとすると、シェリルにぎゅっと握られた。

「のど、かわいたの……」

 ちいさな、囁くような声でシェリルが、まだ半ば眠りの中にいるような表情で、アルトに言った。熱の所為か、シェリルは毎晩こうして、夜中に目を醒ましては水を欲しがる。

「待ってろ、水持ってくるから」

 そう言ってアルトはそっとシェリルの手をほどき、台所に立った。さっき買ったマグカップの、ピンクの方にはまだコーヒーが残っていて、アルトの青いマグカップは空だった。その青いカップを軽く洗って水を汲むと、アルトは寝室に戻り、シェリルのそばに座った。

「飲めるか?」

「ん……」

 アルトがシェリルの体を支えて、上半身を少し起こして、コップを持たせる。まだ寝ぼけたような顔で、ぼうっとしたままのシェリルが、アルトに渡されたそのカップを見て、うれしそうに笑った。

「おそろい」

 どこか舌っ足らずに言った、彼女はとても幸福そうな顔をしていて。そのシェリルの表情に、アルトは胸を突かれた。

 水を飲み終えてシェリルはアルトにカップを渡すと、そのまま横になる。そして、アルトの手をぎゅっと握った。

「そばに……いてくれて、ありが、と……」

 そう言ったかと思うと、すっと眠りに引きずり込まれるように落ちてゆく。それから数秒と待たずに、シェリルは静かな寝息を立てていた。

 アルトがいることを確認して、安心しきった寝顔で眠るシェリルを見ていれば、ただ胸に愛しさがあふれる。この気持ちを何というのだろう。

「シェリル」

 彼女の病状を、残された時間の短さを哀れんでいるうちは、きっと本当には、その心のそばにはいられない。それなら幸福を探そう。今そばにいて、彼女に触れられる場所にいる。その幸福を、ただ享受する。

 カップをベッドサイドにおいて、その手でそっとシェリルのストロベリーブロンドの髪を撫でる。愛しい彼女にまだ触れられる。そしてアルトは、やわらかな桜色の唇に、自分の唇を重ねた。そっと。起こさぬように。

 触れあった唇から、胸を浸す温かさが流れ込んできて。アルトは目を閉じて、全力でその幸福を受け入れた。

 シェリルがいつもそうしているように。



「俺は幸せだよ、シェリル」



 ベッドサイドの常夜灯が、今日ふたりで選んだマグカップの片割れを、ほんのり橙の光で照らしていた。



作品名:pair cups. 作家名:桜沢麗奈