いいひと
「帝人くーん、こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
軽く頬を叩けば、切れた唇から滲む血が指先を濡らした。水とは違う血液の感触に反応して瞳孔が広がる様な錯覚がする。
「…………う、ん……」
「ん?起きたかな」
「あ……れ?え?」
微かに震える体を何とか起こして、彼は周囲と俺の顔に視線を往復させては意味をなさない言葉を零す。
「……折原さん?何で……?」
「何処で寝ても自由だけどさ。帝人君、ここは君の住んでた安全な田舎じゃないんだから、うっかり襲われちゃっても知らないよ」
「寝、て……あ、いえその…………あっ」
意識がはっきりしてきたのか、彼は恥じるように顔を赤くした後はっとして絶句した。百面相だ。
「どうしたの?」
「あ、いえ……」
「立てる?」
「……はい、なんとか」
俺は逡巡する彼の腕をとって立たせた。腕をつかんだ時、枯れ枝の様な細い骨の感触にぎょっとした。高校生の体とはこんなに子供だったろうか。
「あの、ありがとうございます」
「いえいえ、たまたま通りがかっただけだから」
笑いかけてやると、彼は苦い顔でうつむいた。その瞳が潤んだ意味はだいたいわかる。
「ああ、そうだ」
言葉を濁す少年は何処からみても自尊心を傷つけられた可愛そうな人間で、思わず唇が歪んでしまう。
「これ、帝人君のだよね」
「あ……はい。そうです」
「良かった」
意識して穏やかな笑みを浮かべ少年へ財布を差し出すと、彼は後ろめたそうに受け取った。
「ありがとうございます…………」
曖昧な沈黙に、俺はわざと見当違いな事を言った。
「君の傍に落ちていたんだよ。中を確認してみるといい。君の寝てる間に誰か悪戯していったかもしれないし」
財布を開くように促すと、彼は指先一つ動かすのも辛い様で緩慢な動作で中をあらためた。
「どうかな?」
「……大丈夫でした」
「そう、良かったね」
「はい。あの、本当にありがとうございました」
そっとこちらの様子を窺う瞳は疑心を抱いていた。本当に拾ったのか、どうなのか。そしてもう一つの気掛かりに揺れている。
俺は微笑みながら言った。
「ところで帝人君」
「はい」
「拾い物にはお礼一割と言うけれども」
「えっ」
強張った少年の肩を抱いて、強引に路地から連れ出す。今彼の傍を離れたら、もったいない気がした。今にも彼のどこかで傷が真っ赤に開くような予感がしたからだ。それが見たかった。嗜虐心に、指の先が痺れる。
「いや、学生の財布の中身なんて知れてるから金銭を要求したりはしないよ」
「……す、すみません」
「うん。だからね、体で払ってもらおうかな」
「何かお手伝いですか?」
「そう。丁度夕食は鍋にしようと思ってたところなんだ」
「…………はい?」
「一緒にどうだろう」
「えっ?」
「家に来て、一緒にご飯食べてくれるだけで良いんだけど。どうかな?」
突飛で、警戒される事を言っている自覚はあった。
「…………わかり、ました」
大きな目を瞬かせて頷く少年はいつもの童顔に拍車がかかったようで思わずいけない事をしている気持ちになる。幼児誘拐とか。幼児虐待とか。高校生なんだけどなあ。
街灯の下で見る彼は青あざや擦過傷が目立ち痛々しい事この上ない。まるで自分が無体をしていた様な気分にさせられた。彼が傷つくのを期待しているのに、おかしな話だ。
危うすぎて何をしても悪い気になる。あまり良くない傾向だ。
首筋についた赤い擦り傷が妙に気になって、俺はそれを見ないようにあえて前だけを見て歩いた。しかしよく考えると惜しい事をしたものである。彼の感傷はこの時まさにその瞳になみなみと満ちていただろうから。俺が見たかったのは多分そういうものだったはずだ。
新宿までの足を電車からタクシーに変更して、流れゆく光の群れを見送っている最中彼は掠れた声で零す様に言った。
「あの折原さん」
「何かな?」
「どうしてあそこにいたか聞かないんですね」
涙の匂いのする声だった。
竜ヶ峰帝人は非日常の奴隷だ。
何故あの場所にいたかなんて、そんなわかりきった事言われるまでもない。
あそこが自殺名所になりつつあるからだ。幽霊を見たという人間まで出てきていた。そう言う噂を最近ダラーズのサイトでも見た。
けれど彼は何処までも小市民なのだ。常識を知って、道徳を順守して、その世界の中でしか生きていけない事を知っている、正常な異常者だ。つまりはマジョリティーだ。どこにでもいる、適度に欠けて、僅かに突出している大多数。
どこにでもいる子だ。神様みたいに。
俺は彼の首筋の赤い痕に向かって口を開いた。
真っ赤に裂ければ良いのに。
男たちを適当にあしらって、逃げていく間抜けな後ろ姿を見ながら、こうも頻繁に厄介事に巻き込まれると、池袋に遊びに行くのは止めようかなと思ってもみない事を考えて、笑ってしまう。
俺は路地裏でうずくまる少年に声をかけた。
「君、大丈夫?」
腫れた瞼の下の怯えた瞳が弱く光った。
「今度は盗られないようにね」
成長途中の中途半端な体を覆う制服のポケットに財布をねじ入れると、俺は彼に救急車を呼ぼうかと提案した。
「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから」
消え入りそうな声で僅かに首を振る少年を見降ろしながら俺は苛立ってさえいた。
一体何をやっているのか。これじゃあまるで“いいひと”だ。
「そう、じゃあね」
まるで彼の顔に傷を作った張本人の様な勢いで、俺は路地を後にした。彼の唇の端に滲んだ赤に何の感情抱かなかったというのに。
「…………」
ただ、違うとは思った。同じであるはずの血の色が。どこにでもいるような、彼の血と。
急に忌々しい気持になって指の先をコートで拭う。血なんて付いていないけれど。
思考に何度も割り込む黒い髪と首筋に、赤い擦過傷。
彼の青と黒と赤。それはおよそ多くの人が持っているものだ。
全体の一部だ。彼も。
何処にでもいて、どこにもいない。
神様みたいに。
善い人みたいに。