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私の好きな人

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例えば、石田さんと恋をする女の子は幸せだ。きっと控えめで、でも芯はしっかりとしていて可愛らしくて、高校の時の同級生だったりして、そのまま六年も七年も続くような恋をする、そういう娘に私はなりたい。


 新しい朝が来た。希望の朝だ。そんな素晴らしい朝なのに、牧野は一人腰を摩っていた。痛いのだ、腰が。
「何をしているんですか」
 腰の痛みに唸っていると、後ろから声をかけられた。振り向かなくても分かる、宮田だ。とゆうか此処は宮田の家なので、彼の声がするのは当たり前だ。牧野が曖昧に微笑むのに少し考えた宮田だったが、「ああ、」と何かに思い当たったような声をあげると、唐突に牧野の腰に手をやった。
「昨日は随分と無理をさせましたしねぇ。痛いんですか」
「ちょ、急に触らないで下さい!くすぐったいですっ!」
 身を捩るが、牧野の慌てる様が面白いのか手を放してくれない。それどころか、尻の方にまで手が伸びてくる。さすがに手をぴしりと叩くと、ムッとした顔でこちらを睨んできた。
「何するんですか。人が折角労わってやろうとしたのに」
「労わって頂くのは有難いのですが、お尻は余計です!」
「それはすみません」
 さらりと謝られたが、大して悪いとは思っていないのだろう。宮田の表情には一ミリの変化も無い。彼はいつもそうだ。立場上牧野の方が身分は上なのだが、宮田の敬意や謝罪など表面的なものに過ぎない。別段それに苦言を呈するつもりはないし、自分を敬えと言う気持ちも無い。そんな事が言えるのなら、初めからこんな関係にはなっていないのだ。
「はぁ、私そろそろお暇しますね。八尾さんに何も言わずに出てきてしまったから、きっと心配しています」
「二十七の男が一晩家を空けるなんて普通だと思いますがね」
「…それでは失礼します」
 自分がもう少し気性の荒い性質だったらきっとこう言っていただろう、「誰の所為で八尾さんに心配をさせるはめになったと思っているのだ」と。だいたい、たまたま病院の近くを歩いていた所を殆ど拉致する勢いで連れ込まれたのだから、これはもう確実に宮田の所為だ。とは言え勿論そんな事、牧野に言えるわけないのだけれど。牧野は人に対して暴言を吐く事に慣れていない。他人に悪意を向けられる事にも。幼い頃には少しあったそれが、大人になり求導師としての地位を確立した今となっては皆無といっていい。そしてそれは、
「何か?」
 この目の前の男が関係しているのだ。神代の犬と呼ばれ、村人から畏怖と嫌悪の対象になっているこの男が。
 宮田が影で何をしているのか、牧野は余り詳しい事を知らない。ただ、自分の今の立場は彼によって守られているという事を、薄らと感じているだけだ。私は宮田さんに守られている。しかし、それを喜ばしい事とは思えない。だって彼の自分を見る眼は何だろう。暗い暗い、夜の闇よりも暗いその眼は。

宮田が牧野をどう想っているのかは知らないが、牧野は宮田が好きだ。初めはただ、自分には持ちえないその強さに憧れた。例え周りに何と言われようとも、己を変えないその誇り高さ。高潔ともいえる美しさ。自分と彼の血が繋がっているだなんて、とてもじゃないけど信じられない。だって自分は、彼のようにはなれない。宮田は牧野の劣等感を刺激する存在だ。求導師として崇められている自分、しかしその内面は重圧に押し潰されそうになりながらそれでも外面だけは保とうとしている、情けない男がいるだけだ。自分は彼のようにはなれない。もし自分が宮田の家に引き取られていたら、自分は彼のようになれたのだろうか。それとも宮田の義母が双子を揃って引き取っていたら、義父が二人とも受け入れてくれていたら、自分達には別の道が用意されていたのだろうか(それは宮田が今までどのようにして生きて、何を見て何を感じてきたのかを知らないからこそ言える、ある種傲慢とも取れる考えなのだけれど)
 最初は憧れだった。それは確かにそうだった。それが別の気持ちに変わったのは何時の頃だろう。切っ掛けを作ったのは宮田だ。
実は一度だけ、牧野は宮田に踏み込んだ事がある。本当は、何時だってちゃんと話をしてみたかった。彼の事を知りたかった。そして自分の事を知って欲しかった。宮田に会いに行こうとする牧野に、求導女は少し心配そうだったけれど、でもたとえ離れていても自分達は兄弟なのだから、それが当たり前の事だと思えた。きっと大丈夫だと思った。宮田に、拒絶されるまでは。
「求導師様に話す事などありません。貴方は何も知らなくていい」
 表情こそ変わらなかったけれど、その時の宮田は明らかに不愉快そうだった。きっと牧野が目の前にいなければ、舌打ちの一つもしていただろう。もしかしたら、と淡い期待を抱いていた牧野の心に冷水を浴びせるには、それだけで充分だった。
 自分は宮田に嫌われている。憎まれているといっても良いかもしれない。さすがに鈍い牧野でもそれくらいは分かった。でも何故だろう。宮田に嫌われるような事をした覚えはないし、嫌われる程一緒にいたこともないのに。
 押し黙ってしまった牧野を見て、宮田が一つ溜息を吐いた。もう牧野には宮田の方を見る事が出来ない。自分の悪い癖だ。相手に強く出られると、それ以上踏み込む事が出来なくなる。ふと視界が陰った。伸ばされた手に手首を握られ、驚いて視線を上に向けた。真向いに座っていたはずの宮田が、いつの間にか目の前に立っていた。
「貴方は、俺の事を本当に知りたいですか」
 地を這うような低い声に問われ、牧野の決して強くない心が縮み上がる。それでもそう望んだのは自分だったので、怖気づく心を抑えて何とか頷いた。声なんて出せなかった。完全に宮田の迫力に吞まれていた。
「ならば見返りを下さい」
 もう片方の手が法衣の襟元を掴み、無理やりに立たせられる。腕を握る力は更に強くなり、骨の軋む音が聞こえそうだ。怖かった。涙が出る位、目の前の男が恐ろしかった。やっぱり八尾の言うとおりだ。自分を慈しみ、愛し育ててくれた女性は決して間違えない。宮田に、双子の弟に不用意に近づいてはいけなかったのだ。
 目の縁に盛り上がった涙がついに零れそうになると、生暖かい物がそれを舐めた。それが何かを理解する前に、空気を求めてはくはくと金魚のように動く唇が塞がれた。苦しい苦しい、息が出来ない。ごめんなさい、お願いだから許して。何に謝っているのか、そんな事はもう牧野にだって分からない。ただこの苦しさから逃れられるのなら、自分は土下座だってするだろう。
肺が悲鳴を上げている。脳に酸素がいかない。足ががくがくと震え、いよいよ倒れそうになった時ようやく息苦しさから解放された。ひゅーひゅーと喉が鳴る。大きく息を吸い込もうとしたその時、勢いよく壁に叩きつけられた。
作品名:私の好きな人 作家名:スカ