比翼連理 〜 緋天滄溟 〜
10. 裂翼
冥王の赦しがなければ、冥界から出ることはかなわぬはずのヒュプノスが姿を消し、まるで機を窺っていたかのように軍神配下の者から齎されたから情報―――。
真偽のほどが定かではないことが殊更にパンドラの神経を逆撫でし、それが伝染したようにピリピリとした緊張感が冥界を支配していた。
「そのことが真実ならば忌々しき事態。確かめる必要がある」
そう判断したパンドラの命により、海界の将に真偽のほどを問い質したのち冥界へと舞い戻ったラダマンティスが知り得た事実をパンドラへと報告し終えた。
丁度パンドラの前から去ろうとしたその時、不機嫌さを漂わせながら眠りの神が姿を現した。ほっとしたような表情を浮かべたパンドラとは正反対に厳しい表情を浮かべたヒュプノスはどこで知ったのか、海界との不穏な事態について把握しているようだった。ラダマンティスは不可解さに首を傾げつつも淡々と報告を重ねた。
「―――それで?」
「事の真偽を確かめましたところ、真実でありましたゆえ―――」
「力を行使したのか?」
「御意」
そのまま押し黙った眠りの神をラダマンティスと傍に控えていたパンドラが固唾を呑んで見守った。
「―――ハーデスさまのご意思だ。おまえたちは引き続き剣の奪回に徹せよ。それから……来ているようだな、聖域からの使者が。その者についてはそのまま追い返せ。よいな?パンドラ」
聖域の“ニオイ”を嗅ぎ取ったヒュプノスはことのほか厭そうに顔を歪めながら吐き捨てるように言うと、ジュデッカを後にしようとした。
「ですが、ヒュプノスさま。あの聖闘士……シャカに目通り叶うまでは梃子でも動かぬ様子」
食い下がろうとするパンドラにヒュプノスが僅かに眉根を寄せる。
「ならばそのまま捕らえておけば良い。ミーノスが対応しているのであろう?叩き出せ、もしくは捕らえるよう命じろ」
「そのようなことをなさって本当に宜しいのでしょうか……約定に違えることになりませんか?」
ヒュプノスの黄金色に輝く瞳を畏れる事無くパンドラが見つめ返す。すると、ヒュプノスは皮肉めいた笑みを口元に忍ばせた。
「くどい。神の意に物言うつもりか?パンドラ。自惚れるでないぞ!―――それに。そのようなもの、ハーデスさまご自身が破棄なされたのだ。おまえたちは命じられるままに動けばよい。逆らうことは許さぬ!」
語気を荒げる眠りの神に畏まりながら、その場を離れたパンドラとラダマンティス。代わって、静寂の訪れた主なき館を眩しいばかりの銀色の死神が訪れた。
「―――何だ?」
数分の間、ただじっとヒュプノスの目を見ていたタナトスはフッと唇を吊り上げる。苛立ったように眉を顰めたヒュプノスはタナトスの纏わり憑くような視線から逃れるように不快感を露にした。
「ヒュプノスよ、何があった?」
ジットリと舐めるように見つめる視線。ともすれば見下しているとでも思えるほどの冷たい銀色の瞳。追求からは逃さぬ―――そんな強い意志さえも感じられた。
「おまえが知るところではない。エリシオンにて妖精と戯れておればいい」
「ふん。何かよからぬ入れ知恵でもされたか?あの軍神に……」
「何が言いたいのだ、タナトス?」
「いいや。何も……な。それに今、言ったところでガチガチに凝り固まったおまえに俺の言葉を受け入れる容量などありはしないだろう?」
すべてを見透かしたような左翼の言葉にヒュプノスは苛立ちをさらに募らせる。実際、相通じるものが多いとしても、たとえ須らく等しいものであったとしても。
ヒュプノスにすれば考えていることのすべてを解ったように言われるのは不満であり、不愉快極まりなかった。
「私を虚仮にするか?」
「どうとでも。だが、俺が勝手をすることに口は挟むな。それだけを言いにきた。おまえがすることには目を瞑るかわりにな」
タナトスは己の行動を諌めるつもりだとばかり思っていたヒュプノスは意外な言葉に僅かばかり驚きの色を見せた。
「―――何をするつもりだ?タナトス」
「おまえがハーデスさまの命に従うように、俺もただ……命じられたとおりに動くのみだ」
なるほど、とようやく合点がいったヒュプノスは侮蔑を孕んだ視線を手向ける。
「ふん。それを反故にしろと言っても聞かぬのだろう?好きにするがいい」
「物分りがいい兄弟を持った俺は幸せものだよ……フッ」
皮肉っぽく嗤うタナトスを冷ややかな目で返したヒュプノスはくるりと背を向けた。
「一つ忠告しておく。冥界を出るつもりなら……ハーデスさまがお戻りになられた時、おまえが此処に在るならばよし。在らねば……逐電したとお伝えする。その後おまえの身がどうなろうともな」
「涙が出るほど嬉しい餞の言葉だな。感謝するよ。それから、片翼よ……いや、何でもない」
ふっと軽く笑んだタナトスはヒュプノスの目前から銀色の影を消した。
シンッと静まり返ったその場に佇んでいたヒュプノスは遠く彼方の空間から囁く声が聞こえたような気がした。
―――元はひとつの魂。
ふたつの器に裂かれたとしても。
おまえの望みは俺の望みであり、俺の望みはおまえの望みでもあるのだ……と。
作品名:比翼連理 〜 緋天滄溟 〜 作家名:千珠