とらわれの心
幼い頃、両親から嫌われ、汚いと罵られ、疎まれ、蔑まれて生きてきた。
すぐにそれは終わり、施設での生活が待っていたが……『汚い』という言葉はバジルの中に染み込んでいた。
捨てられたのは汚いからだ。だが、ならばそんな自分を生んだものたちも汚いじゃないか。汚い自分の周りのものは皆すべて汚いはずだ。
何もかもすべて汚れている。
バジルは極端な潔癖症になっていた。
自分は汚い。人間は汚い。世界は汚い。
この世界にはきれいなものなんて存在しない。
そんなバジルの前に、アイツは現れた。
同じ施設で、ちょうど昼寝の時間に、ベッドに横になっていたバジルの隣に、ころんと転がされた同年代くらいの少年。
何故かすでに眠っていて、目は固く閉じられていたがその大きいことがわかって、微かに開かれた唇は薄いピンク色をしていて、色白の顔は眠っているからか頬だけがうっすらと朱に染まり、淡い金色の糸のような髪が天使の輪っかを作って輝いていて……髪の毛はその柔らかな頬の輪郭を包むように流れていて……。
驚くと同時に無性に腹が立った。
なんだこの生き物は。
こんなにキレイな……
(キレイ?)
バジルは呆然とした。
そして、慌てて浮かんだ考えを否定する。
キレイだなんて、そんなはずはない。
コイツもどうせ汚い人間なんだ。
連れてきた孤児院の女が『アンディ君よ』と紹介する。仲良くするように、と。
冗談じゃない。
アンディはバジルにとって、いちばん腹立たしい、気になって気になって仕方がない、苛々させられる存在になった。
それから数年。
同じ中学にふたりは進んだ。
偶然クラスも同じだった。
中学2年のある日。
(今日もムカつく……)
バジルが思うのは、もうほとんどの生徒が帰った教室で、机にふせって眠っているアンディの存在。
窓際の席で、腕の上にあごを乗っけて、首を傾げるようにして目を閉じて、気持ちよさそうに眠っている。
さらりと髪の毛が机の上にこぼれていて、蛍光灯が淡い金髪に天使の輪っかを作り……まるで出会った時のよう。
じっとそれを見つめていたバジルは、日直としての仕事である日誌を閉じて、アンディの机に近付いた。
いつのまにか教室にはアンディとバジルの他には誰もいない。
苛立って仕方がない。
バジルはアンディに嫌われるだけのことはしてきた。嫌っていることを態度に出したし、嫌がらせもした。用心されて当たり前だ。なのに、こうしてふたりきりの教室で、すやすやと無防備にお昼寝ときた。
まあ、ふたりきりだということには寝ているので気がついていないのだろうが。
しなやかな金色の髪の毛がまだあどけなさの残るまるみを持った頬をやさしく縁取って流れている。
バジルはそれを側に立ってじっと見下ろした。
(……この髪が悪いんだ……)
キレイ、などとうっかり思ってしまうのは、この髪のせいに違いない。実際は、キレイなはずなどないのに。かたくなにそう思う。
そう、アンディだってしょせんは汚い人間なんだ。
(……ああ、腹が立つ!!)
髪の毛に手をのばしてひと房つかんだ。キュッと軽く引っ張る。
すると、小さな淡い桜色の唇がうっすらと開き、『ん……』と苦しげな声が漏れる。
まぶたが開きそうにピクッと動く。
(ああ、コイツのこの口も、この目も……!)
髪だけじゃない。いつもバジルを苛々させるのは、アンディのすべて。
強い意志を持って輝く大きな瞳も、キリッとした眉毛も、サラサラの髪の毛も。自分の信念を貫くその強さも。
バジルがいくら嫌がらせをしても、向かってはきても逃げはしない。バジルに怯えない。汚い人間のくせに、何を言われようがされようが、泣いて助けを求めたりしない。いつだって、いつだって、誇り高く、自分の思うことをして……。
その精神は、バジルの知っている人間とは違って、まるで……。
(ちくしょう……)
髪の毛を引っ張った際に苦しげな声を漏らさせたことに気を良くし、再度引っ張る。
汚してやりたい。苦しめてやりたい。決して屈しないコイツが、自分の前で涙を流すところが見たい。
そんな歪んだ欲望がバジルの胸の内からあふれ出ていた。
アンディの目が、大きな目が、ゆっくりと開く。微かな声がこぼれる。
「……何? 痛い……」
とっさだった。
バジルはギュッとアンディの髪の毛を大量にひっつかみ、グイッと後ろに引っ張る。
「つっ……!」
痛みに声を上げてアンディがのけぞる。
バジルは窓際のカーテンをつかむと、バッと引っ張り、それでふたりの姿を覆い隠して、上を向いたアンディの顔に顔を近付けた。
もう片方の手でつかんだ髪の毛を放してかわりに後ろ頭を手で支えるように押さえて、逃げられないようにし、そっと唇に唇で触れる。
アンディの震える唇にバジルのそれが重なった。
アンディの大きな目は驚きに見開かれ、体は強張ってしまっていて、何の抵抗もない。
(柔らかい……)
反応がないのをいいことに、角度を変えて深く口づけ、貪る。
……そうだ、貪りたかったのだ。
強く唇を押し付け、仕上げにぺろりと舐める。
(汚してやりたかった……)
ドンッと我に返ったアンディに胸を突かれ、バジルはニヤつきながら離れる。
カーテンからも手を放し、ふたりの姿をあらわにする。より正確には、バジルにとって、たった今まで唇を自分に奪われていたアンディの姿をさらす。残念なことに教室には誰もいなかったが。
アンディがうつむいて唇を自分の手でぬぐうようにして、ハァハァと息を吐いている。
……ますますいい。
鼻歌でも出そうなほどバジルは上機嫌で獲物を見ていた。
(……おまえは汚れた俺にキスされたんだ)
まるで自分のものになったようだ。
気分が高揚する。
バジルは何故自分がたまらなく嬉しいのか、それほどまでに喜んでいるのか、本当の気持ちに気付かなかった。
(アンディ、汚れた俺に汚された気分はどうだ?)
うつむいたまま、ひとしきり手の甲で唇をぬぐうと、アンディが顔を上げる。
その顔を見て、バジルはムッとする。
……まるで何事もなかったかのような顔。