Quid pro quo
『例え肉親との縁(えにし)が薄くてもいい。地を這いずったって、人の痛みや苦しみが判れば、お前の見ているものが見えるかもしれない』
『……愚かな若獅子よ。望んで人の世の苦しみを求めるか?』
『それで──お前が俺を見てくれるのなら』
夢を見た。
己の生に何の躊躇いも、迷いもない、光の獅子──あれは自分だろうか。
いや。自分はあんな風に真っ直ぐには笑えない。
笑い方など、とうの昔に忘れてしまった。
屈辱など何も知らぬから、あんな傲慢なことが言えるのだ。
そして自分よりやや年上に見える、金髪の隣人。
おかしい──自分とシャカは同い年の筈だ。
ほんの一ヶ月分だけ、自分の方が年上だけど。
無人の処女宮。祈る乙女の聖衣。
いつしか少年は、一人でその場に立ち尽くしている。
生涯閉ざされたままだった光無き瞳が、どんな色をしていたのか。
究極まで高めた小宇宙の果てに、何を「視た」のか。
教えては貰えぬまま、彼は逝ってしまった── 一片の灰も残さずに。
追い掛けても、追い掛けても、いつも彼は自分より先に往く──
「──……何を泣く」
狭い寝台に横たわったまま問う、シャカの静かな声がした。
細い指先が、目尻から零れる涙を拭う。
目をしばたたかせたアイオリアは一瞬、夢と現の区別が出来なかった。
「……本当に、シャカなのか……?」
お前が逝く夢を見た、などとは到底言える筈もない。
第一あれが本当にシャカだったのか、自分でも定かではなかった。
「……他に誰だと言うのだね」
作り物めいた美しい顔には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。
アイオリアを責めるような色合いすらも。
ただ、無惨に腫れ上がった頬や、切れた唇を目にし、自分が何をしたのかをまざまざと思い知らされる。
「シャカ……俺は──」
「気は済んだかね」
「……っ」
シャカの素っ気無さはいつも通りだったものの、後ろめたい分アイオリアにはそれが更なる拒絶に感じられて、それ以上は何も言えなかった。
「──処女宮に帰る」
上体を起こしたシャカは一瞬、微かに眉をしかめたが、何も言わずに寝台を下りた。
引き千切られた布をそれでも緩慢な動作で体に巻きつけると、別れの挨拶もせぬまま、テレポートして消えた。
「シャカ──!」
止める間もなかった。詫びの言葉も言えず仕舞いだった。
もっとも止めたところで、何もしようがなかったのだが。
「……せめて、傷の手当くらい……」
させてくれても良かったのに──
十二宮では、黄金聖闘士と言えどもテレポートは叶わない。
白羊宮から長い石段を一段一段、六番目の宮まで上って行かねばならないのだ。
あの体ではさぞ……──後悔だけが、重く胸に残った。
アイオリアはのろのろと起き上がると、シャカが置いていった食べ物を手に取った。
「…………」
空腹な筈なのに、配給品ではない柔らかなパンは、砂を噛むかのように味気ない。
どんな代償を払おうとも、所詮地を這う獣は、有翼の乙女が翔ける高みになど辿り着けないのだ。
そして、自分はいつも置いていかれる──
「……やっぱり、狡いじゃないか」
寒さに耐え切れず抱き締めた毛布からは、ほんの微かにシャカの纏う香の匂いがした。
FIN
Quid pro quo/代償
2012/3/26 up
作品名:Quid pro quo 作家名:saho