化物語 -もう一つの物語-
010
――僕の、いや、僕達の全ての始まりは。
あの春休みの直前――三月二十五日からだと僕は思う。
僕はあの日、羽川翼と出会った。
色々話した後、彼女の方からこう切り出してきたのだ。
――ねえ、阿良々木くん。
――阿良々木くんは、吸血鬼って信じる?
と、彼女から、話を持ち出したのだ。
――多分、この瞬間から僕の運命は動き出したのだ。
本来なら関わることがなかったであろう怪異に。
僕は関わり、運命を狂わされた――否、狂わしたのだ。
そして人間でいることを諦め、吸血鬼もどきの人間としてこれから生きていくことを決めた。
怪異に一度でも遭うと怪異に引かれる。
この『ひかれる』は、引かれるなのか、惹かれるなのか、曳かれるなのか、轢かれるなのか、定かではないが――だからこそこの後も、僕は立て続けに障り猫、おもし蟹、迷い牛、レイニー・デヴィル、蛇切縄、囲い火蜂、しでの鳥などの――様々な怪異と出会った。
けれど、それをきっかけに、戦場ヶ原ひたぎ、八九寺真宵、神原駿河、千石撫子と出会った。
ついでに言うと、貝木泥舟、影縫余弦、斧乃木余接、臥煙伊豆湖にも出会った。
それで僕は変わったのだ。
いい意味や、悪い意味で。
僕は成長できたのだ。
そしてきっと彼女たちも成長したのだろう。
戦場ヶ原と羽川がいい例だと思う。
――友達を作ると、人間強度が下がるから。
そう言って人間関係を築かなかった、否、築けなかった僕が、これ程成長したのは、ある意味怪異のお陰なのである。
今の阿良々木暦がいるのは他ならぬ彼女たちがいたから。
なのに。
それなのに――
僕が置かれた状況では。
どうやら彼女たちと一切の関わりがないみたいだ――
「――どういうことだ……?」
僕、阿良々木暦の携帯には、最近――春休みを境に――急激にアドレスの登録数が増えた。
なのに、今僕の視界に映る携帯の画面には。
『羽川翼』の名前しか。
表示されていなかった。
いくら探しても、いくら探しても、いくら探しても、戦場ヶ原ひたぎの名前も、神原駿河の名前も、千石撫子の名前も、臥煙伊豆湖の名前も。
映ることはなかった。
アドレスは一件。
羽川のみ。
それは。
その画面はまるで――
「ゴールデンウィーク明けまでの――母の日までの僕の携帯の状況と同じじゃないか――」
でも、今は二学期である。
夏休み明け。
それなのに、なぜ羽川の名前しか表示されないんだ…………?
「……ん? そう言えば――」
気になっていたこと。
さっき、火憐は、あいつは一体、何て言った?
僕が連絡を入れると言って。
戦場ヶ原ひたぎの名前を出したとき。
あいつは――こう言った。
――せんじょうがはら? 誰、それ?
――紹介されてねーぞ。てか、そのことを聞いたことねえよ。
僕は確かに、彼女として二人に戦場ヶ原のことを紹介したはずなのに。
火憐のその反応は――知らない人の名前を聞いた反応そのものだった。
それから分かることはただ一つ。
火憐と月火は――戦場ヶ原を知らない。
戦場ヶ原と会ったことがない。
そうとしか、言いようがない。
「でもそれじゃあ、矛盾してるんだよな……。僕が紹介したのに、会ったことない、知らない人になっているんだから」
矛盾――している。
僕と――彼女たちの認識が。記憶が。思い出が。記録が。出来事が。
矛盾して――ずれている。
食い違っている。
「そう言えば、あいつらもう一つ気になることを言っていたよな――」
火憐の台詞。
――はあ? あたし達、髪型変えてねーし。
――あたし達三人とも、髪型は前とは変わんねえぜ。
髪型――か。
髪型って、そう言えば吸血鬼って自由に変えれるんだよな、確か。
どうでもいいけれど――
「そうだったよな? 忍」
僕は影に向かって、そこに潜んでいる吸血鬼を呼んだ。
忍野忍を、呼んだ。
けれど、
「――――」
無反応だった。
何も起こらない。
あの金髪の外見年齢八歳――今だけ十歳以上――の吸血鬼が出てくることはなかった。
「…………忍? どうした?」
心配になって声が大きくなる僕。
ひょっとして寝ているのか? 朝だし。
いやしかし、ある意味今は非常事態だぞ?
ペアリングしている僕の感情がダイレクトに伝わっているんじゃ――あれ?
忍――吸血鬼?
忍野忍――キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。
春休み――
「そうだ――吸血鬼。忍野忍。そして――後遺症」
そう。
すっかり忘れてしまっていた。
今の僕の状態を。
僕は、吸血鬼から人間に戻ったが、その時後遺症として、すば抜けた回復能力、治癒能力が残っていたはずだ。
ちょっとした怪我も。
骨が折れても。
腕が引きちぎれても。
身体が真っ二つになっても。
すぐに回復する(最後の三つは、血を飲ませた直後だったり、多く飲ませた場合だけだが)。
そしてそのスキルは。
人間の風邪にも通用するはずである。
人間ごときのウイルスに、吸血鬼の治癒能力、回復能力が劣るはずがない。
怪我もしにくい、病気にもなりにくい――である。
だから、僕が今、風邪を引いているということはおかしいということであり――つまりそれは。
今の僕が――
「吸血鬼じゃ――ない……?」
今の僕は、完全な人間――とはいかなくても、元に戻りつつあると、そういうことか?
じゃあ――忍は?
忍野忍は――どこに? どこに行った?
なぜ僕は――吸血鬼じゃない?
――否。
今の僕が、吸血鬼じゃないと決まった訳じゃない。
今の僕が、忍と繋がっていないという訳じゃない。
夏休み明けの――八九寺と『くらやみ』に纏わる――出来事の所為で。
ちょっとだけ、ほんの少し焦っているだけであって――決して、今の僕が吸血鬼じゃないという訳じゃない。
それに――調べる方法だってある。
それも最も簡単な方法が。
それはだって――鏡を見るだけなのだから。
僕は、風邪の所為でかなり倦怠感を感じるが――残った気力を振り絞って、自分の勉強机へと、這ってではなく(さすがにそこまではダウンしてない)、立って向かった。
そして、机の上に置いてある鏡の正面に後ろ向きに立って、上半身の服を脱いだ。
…………いやいや、誤解しないで頂きたい。
僕は、どっかの誰かみたいに、露出狂なんかじゃあない。
普通に――そこにあるだろうものを見る、確かめるだけである。
吸血鬼は鏡に映らないらしいが――それを確認するのではなく(それに僕は鏡に映る。映らなかったら大事件である)。
首を捻って、自分の首筋を見る(これには、相当苦労した。少しだけ意外だった)。
そして僕は、鏡に映る自分の首筋を見て――
「――――!?」
――驚愕した。
驚き、愕いた。
理由はただ一つ。
今現在。
机の上の鏡に映る僕の首筋には。
春休みに。
あの伝説の吸血鬼に噛みつかれた。
自らの血を絞り尽くされるときにできた。
彼女にお礼を言われながらできた。
未だに残っている筈の、あの傷口――牙の跡が。
作品名:化物語 -もう一つの物語- 作家名:神無月愛衣