あの日の空
空から人が落ちてきた。
もっとぐちゃんとかトマトが潰れるような音がすると思ったけれど、そんなことはなかった。どちらかというと、親父が肩に乗せた米袋を床に置いたときのどすんに近い。でも冷静に考えると当たり前だった。人の飛び出てきたら簡単に潰れそうな脳は骨に覆われているし、皮の中にやわらかい果肉ではなく、筋肉や骨や脂肪が詰まっている。
大騒ぎになっている周りを無視して、動かなくなってしまった人を見つめる。スーツを着た若い男の人だ。目を見開いたその表情は恐怖にゆがんでいた。きっと落ちているとき、相当こわかったのだと思う。人は自力では空を飛べない。ふわりと浮くこともできない。ただ宙で必死にもがいて、暴れて、バランスを崩して落ちていくだけだ。
俺もこわかった。ほんとうのほんとうに、人生でいちばん怖かった。
でも、俺は助かった。もう俺にこんな表情で死ぬ未来はない。
「あんたにはツナがいなかったんだな」
かわいそうに。
くしゃんと口に加えていたソーダアイスを噛みつぶした。
次の日、学校に行ったら話題はやっぱり飛び降り自殺だった。
野球部の試合帰りに遭遇した自殺死体。どんな死に方だったのか、どんな死体だったのか。
いつもは試合の結果を聞いてくる同級生も今日は死体の惨状と自殺理由に夢中だ。飛び降りたのがサラリーマンであったことから、会社でのストレスが、とか家庭内の不和がとか、最後は不倫の果てにと勝手な想像が繰り広げられている。
野球部の試合に出かけていたやつは全員見ているので、教室内の野球部員は大勢に囲まれている。でも俺には訊いてこない。ちらりちらりと視線は感じるのに、あと一歩は踏み出さない。俺には訊けないんだ。
昔、パフォーマンスとして片付けられた俺の屋上ダイブイベントは高校でもいつの間にか広まっていた。俺が屋上から落ちたときのように「あのパフォーマンス最高だったぜ。落ちたとき、どんな気分だった?」と探るような目で笑いかけてくればいいのに。「なあ、死体を見るなんて、どんな気分だった?」
そうしたら、答えなんて決まってる。さいあくだ。笑えない。あれはツナがいなかった俺なんだ。
授業が始まるまで寝ちまおう、と机に突っ伏す。見知らぬ誰かの死体より、俺には今日の部活がちゃんと行われることのほうが心配だ。
「だいじょうぶ?」
教室の喧噪の中から高い声がかけられた。顔を上げると、明るい茶色の髪と目が俺を見つめている。
笑って「なにが?」と聞き返すと、心配そうな表情はそのままで「ならいい」と言う。手を伸ばしてわしゃわしゃと髪をかき混ぜると今度はちゃんと声を上げて笑って暴れた。
そうだ。まだツナに教えていなかった。あとで手紙に書かなきゃ。俺にかわいいカノジョができましたって。
俺がツナに置いて行かれてしまったのは中学のときだ。ずっとマフィアごっこでいいと思っていたのに、ツナは遊びをやめてしまった。ごっこ遊びをやめてしまったツナはイタリアに。俺はというと、相変わらず高校でも野球ばかりで、まあ結構充実している。
それでもやっぱり試合のたびにあたりを見渡して、勝っても負けてもなんだか落ち込む。
気がつかれないようにしていたけれど、あるとき先輩に呼び出された。
先輩に「ずっとそばにいたかったやつが遠くに行っちゃったんです」と言ったら、「それは新しい恋に落ちるしかないな!」と言われた。
恋じゃないし、ツナは女の子じゃない。先輩には悪いけれど的外れななぐさめだなあ、だと思ったのだけれど、ふとそれもありかと思った。
ツナは俺と落ちてくれたし(屋上からだけど)、おなじ落ちるなら恋でもいいかと思ったんだ。
そんなときに声をかけてきたのが、茶色のはねた髪で背の小さい女の子だった。名前も知らない同級生。放課後に「試合がんばって」と小さく声をかけてきて、すぐ背を向けて走り去ろうとしたところを腕をつかんだ。
小さくて細い腕。うん、ツナが女の子だったらこんなだろうかと思った。落ちてみようと思った。
だから、俺から「付き合って」と言った。ツナのときと一緒。
真っ赤になったその子はうつむきながら、うなづいてくれた。
悪くなかった。好きだと思った。屋上で弁当を広げると、その子の弁当にはよくタコの形をしたウィンナーが入ってた。母親が作ってくれるんだと照れながら笑った。食べたいと言ったら「交換ならいいよ」と言われので、カッパ巻と納豆巻と交換した。昔と一緒。
あ、そういや一緒じゃない。獄寺がいなかった。まあいいか。
獄寺にばれたら手紙を燃やされそうなので、そう思ったことは手紙に書かなかった。
結局、その日は教師の判断で部活は行われなかった。昨日の飛び降り死体を見たショックで学校を休んでいたやつもいたらしい。
野球場に集まった部員のひとりひとりに話しかけているようで、さりげなく教師が俺の表情をうかがっているようだったので、「じゃ、俺、カノジョと帰ります!」と言ったら先輩にひじうちされた。
いないのは不思議なことに昨日、人混みをかきわけて血を流す死体をのぞきこみに行ったやつらばかりだった。へんなの。見たくなければずっと見なければいいんだ。どんなに目を背けたって、見なければいけないときは来るというのに。
授業中にこっそり書いたツナへの手紙を投函しようと手に持ったまま、帰り道を歩く。隣を歩くちまちました身体に夕日が当たって、全身がオレンジ色になっていた。部活がない日はこの時間に、こうやって並んで帰るのが好きだった。
でも、今日はちょっと違う事態が起きた。
「ねえ」
「うん?」
「手をつないでもいい?」
「なんで?」と言いそうになって、思い出した。この子は女の子だった。
びっくりして固まってしまった俺にその子も固まってしまった。そんなことを考えたこともなかった。だって、つなぐ側の手にはツナへの手紙を持っていたんだ。
その日は無言で歩いて帰った。手はつないでない。手紙をポストに入れるのも忘れてしまっていた。
また次の日、俺はひとりで昼休みに屋上で空を仰いでいた。切手をべたべた貼った封筒を手に持って、書き直さなきゃいけないな、なんて思っていた。内容が大幅に変更されたからだ。
ずるずるとフェンスに寄りかかって座り込み、思い出すのは、ツナとのマフィアごっこが終わった日だ。並盛中学の卒業式だった。
イタリアに行くと告げてきたツナになんて言ったらいいのかわからなくて、俺は視線をそらした。そらした先は屋上の出入り口のドアで、そこには獄寺が立っていた。真っ黒なスーツとネクタイを身につけて、静かに俺たちを見つめている。近寄ってくる気配はない。ぼんやりと、そういえば式に参加してなかったな、と思った。あいつは一緒に行く。俺は置いて行かれる。そう思ったら、また目をそらした。
次に目に入ったのは俺が前に立っていた場所。俺がツナと落ちた場所だった。
ずいぶん前に獄寺がいないとき、こっそりと俺はツナと屋上にやってきて、「落ちたときどう思った?」と訊いてみた。
「憶えてないよ、無我夢中だったし」
もっとぐちゃんとかトマトが潰れるような音がすると思ったけれど、そんなことはなかった。どちらかというと、親父が肩に乗せた米袋を床に置いたときのどすんに近い。でも冷静に考えると当たり前だった。人の飛び出てきたら簡単に潰れそうな脳は骨に覆われているし、皮の中にやわらかい果肉ではなく、筋肉や骨や脂肪が詰まっている。
大騒ぎになっている周りを無視して、動かなくなってしまった人を見つめる。スーツを着た若い男の人だ。目を見開いたその表情は恐怖にゆがんでいた。きっと落ちているとき、相当こわかったのだと思う。人は自力では空を飛べない。ふわりと浮くこともできない。ただ宙で必死にもがいて、暴れて、バランスを崩して落ちていくだけだ。
俺もこわかった。ほんとうのほんとうに、人生でいちばん怖かった。
でも、俺は助かった。もう俺にこんな表情で死ぬ未来はない。
「あんたにはツナがいなかったんだな」
かわいそうに。
くしゃんと口に加えていたソーダアイスを噛みつぶした。
次の日、学校に行ったら話題はやっぱり飛び降り自殺だった。
野球部の試合帰りに遭遇した自殺死体。どんな死に方だったのか、どんな死体だったのか。
いつもは試合の結果を聞いてくる同級生も今日は死体の惨状と自殺理由に夢中だ。飛び降りたのがサラリーマンであったことから、会社でのストレスが、とか家庭内の不和がとか、最後は不倫の果てにと勝手な想像が繰り広げられている。
野球部の試合に出かけていたやつは全員見ているので、教室内の野球部員は大勢に囲まれている。でも俺には訊いてこない。ちらりちらりと視線は感じるのに、あと一歩は踏み出さない。俺には訊けないんだ。
昔、パフォーマンスとして片付けられた俺の屋上ダイブイベントは高校でもいつの間にか広まっていた。俺が屋上から落ちたときのように「あのパフォーマンス最高だったぜ。落ちたとき、どんな気分だった?」と探るような目で笑いかけてくればいいのに。「なあ、死体を見るなんて、どんな気分だった?」
そうしたら、答えなんて決まってる。さいあくだ。笑えない。あれはツナがいなかった俺なんだ。
授業が始まるまで寝ちまおう、と机に突っ伏す。見知らぬ誰かの死体より、俺には今日の部活がちゃんと行われることのほうが心配だ。
「だいじょうぶ?」
教室の喧噪の中から高い声がかけられた。顔を上げると、明るい茶色の髪と目が俺を見つめている。
笑って「なにが?」と聞き返すと、心配そうな表情はそのままで「ならいい」と言う。手を伸ばしてわしゃわしゃと髪をかき混ぜると今度はちゃんと声を上げて笑って暴れた。
そうだ。まだツナに教えていなかった。あとで手紙に書かなきゃ。俺にかわいいカノジョができましたって。
俺がツナに置いて行かれてしまったのは中学のときだ。ずっとマフィアごっこでいいと思っていたのに、ツナは遊びをやめてしまった。ごっこ遊びをやめてしまったツナはイタリアに。俺はというと、相変わらず高校でも野球ばかりで、まあ結構充実している。
それでもやっぱり試合のたびにあたりを見渡して、勝っても負けてもなんだか落ち込む。
気がつかれないようにしていたけれど、あるとき先輩に呼び出された。
先輩に「ずっとそばにいたかったやつが遠くに行っちゃったんです」と言ったら、「それは新しい恋に落ちるしかないな!」と言われた。
恋じゃないし、ツナは女の子じゃない。先輩には悪いけれど的外れななぐさめだなあ、だと思ったのだけれど、ふとそれもありかと思った。
ツナは俺と落ちてくれたし(屋上からだけど)、おなじ落ちるなら恋でもいいかと思ったんだ。
そんなときに声をかけてきたのが、茶色のはねた髪で背の小さい女の子だった。名前も知らない同級生。放課後に「試合がんばって」と小さく声をかけてきて、すぐ背を向けて走り去ろうとしたところを腕をつかんだ。
小さくて細い腕。うん、ツナが女の子だったらこんなだろうかと思った。落ちてみようと思った。
だから、俺から「付き合って」と言った。ツナのときと一緒。
真っ赤になったその子はうつむきながら、うなづいてくれた。
悪くなかった。好きだと思った。屋上で弁当を広げると、その子の弁当にはよくタコの形をしたウィンナーが入ってた。母親が作ってくれるんだと照れながら笑った。食べたいと言ったら「交換ならいいよ」と言われので、カッパ巻と納豆巻と交換した。昔と一緒。
あ、そういや一緒じゃない。獄寺がいなかった。まあいいか。
獄寺にばれたら手紙を燃やされそうなので、そう思ったことは手紙に書かなかった。
結局、その日は教師の判断で部活は行われなかった。昨日の飛び降り死体を見たショックで学校を休んでいたやつもいたらしい。
野球場に集まった部員のひとりひとりに話しかけているようで、さりげなく教師が俺の表情をうかがっているようだったので、「じゃ、俺、カノジョと帰ります!」と言ったら先輩にひじうちされた。
いないのは不思議なことに昨日、人混みをかきわけて血を流す死体をのぞきこみに行ったやつらばかりだった。へんなの。見たくなければずっと見なければいいんだ。どんなに目を背けたって、見なければいけないときは来るというのに。
授業中にこっそり書いたツナへの手紙を投函しようと手に持ったまま、帰り道を歩く。隣を歩くちまちました身体に夕日が当たって、全身がオレンジ色になっていた。部活がない日はこの時間に、こうやって並んで帰るのが好きだった。
でも、今日はちょっと違う事態が起きた。
「ねえ」
「うん?」
「手をつないでもいい?」
「なんで?」と言いそうになって、思い出した。この子は女の子だった。
びっくりして固まってしまった俺にその子も固まってしまった。そんなことを考えたこともなかった。だって、つなぐ側の手にはツナへの手紙を持っていたんだ。
その日は無言で歩いて帰った。手はつないでない。手紙をポストに入れるのも忘れてしまっていた。
また次の日、俺はひとりで昼休みに屋上で空を仰いでいた。切手をべたべた貼った封筒を手に持って、書き直さなきゃいけないな、なんて思っていた。内容が大幅に変更されたからだ。
ずるずるとフェンスに寄りかかって座り込み、思い出すのは、ツナとのマフィアごっこが終わった日だ。並盛中学の卒業式だった。
イタリアに行くと告げてきたツナになんて言ったらいいのかわからなくて、俺は視線をそらした。そらした先は屋上の出入り口のドアで、そこには獄寺が立っていた。真っ黒なスーツとネクタイを身につけて、静かに俺たちを見つめている。近寄ってくる気配はない。ぼんやりと、そういえば式に参加してなかったな、と思った。あいつは一緒に行く。俺は置いて行かれる。そう思ったら、また目をそらした。
次に目に入ったのは俺が前に立っていた場所。俺がツナと落ちた場所だった。
ずいぶん前に獄寺がいないとき、こっそりと俺はツナと屋上にやってきて、「落ちたときどう思った?」と訊いてみた。
「憶えてないよ、無我夢中だったし」