あの日の空
困ったように笑いながら言われて、少しがっかりしたことを憶えている。俺はあのときのことを思い出すと、すごくどきどきして、忘れられなかったからだ。
あとになってわかった。ツナは俺とは違うんだって。
オレンジの炎をまといながら、自由に空を飛べる生き物だった。屋上のフェンスを飛び越えるとか、人が落ちたら死ぬような高いところからも簡単に飛び降りられる。重力に支配されていない生き物だった。俺とは違う。
俺には『落ちた』出来事でも、ツナにとっては違うんだ。そう気がついた。
ツナと真正面に向き合いながら、俺は強くフェンスに寄りかかった。がしゃんと音が響いて、ツナの目が見開いた。
「山本、危ないよ」
「危なくねーよ。だって、ツナ飛べるじゃん」
俺は落ちるだろうけど。リングはもうない。だから、俺は落ちる。笑いながらそう言うと、ツナは怒った。
「俺が助かっても、山本が死んだらだめだろ」
「ツナは俺に死んでほしくない?」
「当たり前だろ」
「俺が死ぬかと思うと、どきどきする?」
「するよ」
そうか。じゃあ、俺と同じだ。俺も死ぬかと思ったとき、すごくどきどきした。頭から落ちていって、たった数秒で地面が近づいてきて、すごくすごくどきどきした。マウンドに立って、あと一球投げきれば優勝ってときよりずっと。
なにかをつかもうとのばした手は空中ではなにもつかめない。バランスをとりたいともがいても、身体は勝手にひっくりかえるし、手足は空中に放り出される。
頭から落ちていたはずなのに、視線がぐるりとまわって空になっていたとき、俺は『飛び降りた』んじゃない。『落ちた』のだと思った。
そして、俺は手からすべって落ちてしまったアイスのようにべちゃっと崩れて死んでしまうと思った。
心臓が破けそうなぐらいどきどきした。そんな俺を助けてくれたツナにはもっと。涙が出そうなくらい、ほっとしてうれしかった。
「なあ、俺がまたここから落ちたらどうする?」
ツナが息を飲んだのがわかった。おおきな目が怒っている。
自分でも何を言っているのかわからない。たださびしかった。あのときも野球の神様に見捨てられた気がした。今度はちがう神様に捨てられるんだ。
やがて、ツナが息を吐いた。
「山本、俺は山本が好きだよ。野球をしてる山本が好きだ」
「俺もツナが好き」そう言おうと思ったのに、言葉は音にならなかった。目を背けたままのほうが楽で、それに慣れてしまっていた俺は最後まで伝えられなかった。
今になって思い出す。あのどきどきが錯覚でも、俺にはもうこれ以上のものはきっとない。だからきっとあれは恋だった。
ツナが好き。だから、俺はもう一度落ちたかった。