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ある朝のこと

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「……ディ! おい、アンディ!!」
 誰かに名前を呼ばれ、肩を揺さぶられる。
「こら、アンディ! 起きろって!!」
 閉じたまぶたがピクリと動く。
 この声は、同室のウォルターだ。
 アンディは正しく理解した。
 朝が来たのだ。起きる時間がやって来たのだ。このままベッドで眠っていてはいけないのだ。
 だって……。
「学校、遅刻するぞ!!」
「……だよね」
 悪あがきでかたくなに目は閉じながらも、口は観念して開く。
 ウォルターの声が苦々しいものに変わる。
「わかってんならさっさと起きろよ。もう食堂しまっちまったぞ。ギリギリまで寝かせてやったんだからな」
「……ちなみに今何時?」
 まだあきらめ悪く目を閉じたままで訊く。
「は・ち・じ・だ!!」
 アンディにはウォルターのイラついた顔が見えるようだった。
 頭上から降ってきた声は、限界まで低められていて、言葉はわざと区切られていて、残酷に時を告げてきて……
 アンディはがばっと起き上がった。
「うおっ」
 赤い頭が慌てて退く。
「ごめん、ウォルター」
 ぶつかることはなかったものの、色々と含めて、謝る。
 相手はニヤッと笑った。
「ようやく起きる気になったか」
 眩しい朝日に真っ赤な髪の毛がキラキラと輝いている。前髪は目に被る長さで、その隙間から明るい色の瞳が覗いている。なかなかに精悍な顔つきだが、今はいたずらっ子のようなやんちゃな笑みを浮かべていた。片方の耳の十字架のピアスがきらりと揺れて輝く。
 高等部の先輩であり、寮の同室である、ウォルターだ。それだけではなかったが。
 ウォルターはブレザーは着ていなかったが、もう制服のシャツに着替えて、上級生の証である赤いネクタイを締めていた。当然、下も制服の黒いズボン。
 二段ベッドの下で(上はウォルター)、まだパジャマのままで上半身を起こしただけの状態のアンディをニヤニヤと笑って眺め、ウォルターは言った。
「まったく、毎回起こすのが大変だな。キスでもすれば目が覚めるのか、王子様?」
 からかわれて、アンディは素直にムッとする。
「放っていけばいいじゃない。高等部の方が遠いんだしさ。何も毎朝起こしてくれなくたって……」
「アホ!! 放っていけるか、同室なんだぞ!? 中等部のガキの世話も任されてんの! おまえが遅刻すると俺も同罪なんだよ!!」
 結構本気の怒声が返る。
 その勢いにアンディは顔をしかめて身をひいた。
「……でも、目ざまし時計があるんだし……」
「初日に『うるさい』っつって放り投げて壊したのは誰だっけ?」
「新しく買ったよ」
「同じ運命をたどるだけだろ、その時計も。なぁ、アンディ。俺はぶん投げてくれるなよ?」
 腰に手を当て、首を傾げてウォルターが言う。
 アンディは少し考えてから言った。
「……うるさいとは思ってるよ」
「何その答え怖い!!」
 ウォルターがギャーッと騒ぐ。
 朝からうるさいなと思いながらアンディはもぞもぞと布団から抜け出る。
「起こしてくれることに感謝はしてるよ。……でも、本当に、ウォルターの方が遠いんだしさ……あれ?」
 壁にかかった時計を見ると、まだ7時45分だ。
 ウォルターを見ると、真面目な顔で、洗面所の方に親指を立てて示して言う。
「顔を洗って、服を着替えて、準備してこい。朝食用意しといたから」
「……うん、ありがと」
 アンディは首を傾げてテーブルを見る。
 寮の食堂は7時半には閉まってしまう。間に合わなかったら自分たちで作るしかないわけだが……共同の冷蔵庫にはろくなものがなかったはず。
 アンディの疑問を含んだ視線に気づいたウォルターが言う。
「食堂でクロワッサンとハムとレタスを手に入れてきた。サンドイッチだけど文句ないだろ。準備してる間にコーヒー入れとくな」
「……うん。砂糖とミルクお願い」
「わかった」
 すごく嬉しそうにウォルターが笑う。
 こういう場合、素直に受け取った方が、世話好きのウォルターは喜ぶ。そういうことを、寮の同室になったこの数か月でアンディは学んだ。
 ちなみに、朝寝坊して時間ギリギリの時、いつもたいていは学校に行ってから授業の間にお菓子やらパンやらを食べる。それでじゅうぶんだと思っている。
 何より、こういうかまわれ方は、なんとなく慣れなくて、つらい。
 孤児院では何もかも自分でやることになっていた。面倒をみてくれるような他人はいなかった。
 だから……。
 洗面所の方に向かいながらアンディはぼそりと言う。
「本当にいいのに……」
 放っておいてくれていいのに。かまわないでくれていいのに。
 遅刻したら自業自得なんだし、朝食をきちんと食べられなくても問題はないんだし。
 ……そう、親切を『気持ち悪い』とさえ感じてしまう自分の世話なんて、する必要もないのに。
「あー? 何か言ったかー?」
 コーヒーを用意しながらウォルターが声を投げてくる。
「別に……」
 アンディは洗面所の扉をバタンと閉めた。
 鏡を見つめながら思う。
 ウォルターも孤児院出身という点では同じだが、よほどいいところだったのか、それとももともとの性格か、とても明るく、面倒見がいい。
 ……正直、理解できない。
 そんなウォルターにいくら『間に合ってます』と言ったところで……
 『好きでしている』と言われたらそれまでだ。
 っていうか、そうだった。
 朝起こすだけじゃない。昼食も一緒に学食で取るためにわざわざ中等部の教室に呼びに来るし、帰りもできる限り一緒に帰ろうとするし、夕飯も食堂で取れない時はウォルターが作ったり買ってきたりするし、風呂も、寝る前の支度も、学校の宿題にまで手を出してこようとする。
 それだけじゃない。
 アンディはよく迷子になるが……中等部と高等部とある天陽学園の中は広い……そういう時に捜しに来るのもウォルターだ。
 不良にからまれてる時に助けにくるのもウォルターだ。
「頼んでないのに……」
 がっくりと洗面台に手をついてうなだれる。
 授業中以外、ほとんどウォルターと顔を合わせているような気がする。
 相手もよく飽きないものだ。
 あるいは、責任感、というものもあるのかもしれないが……それにしたって。
「間に合ってるよ」
 蛇口をひねり、水を出して手を浸して、顔を洗おうとして、ふと鏡を見る。
 キュッとした唇。
 それを嫌そうに開く。
「……キスも、間に合ってるよ……」
 うんざりと言って、その言葉ごと洗い流そうというように、勢いよくバシャバシャと顔を洗う。


作品名:ある朝のこと 作家名:野村弥広