入水だろうか
食後は獄寺に間借りしてもらった部屋でのんびりと過ごした。獄寺は必要以上に干渉せず、距離をきっちり見極めて綱吉を楽にしてくれる。借りもののベッドもふかふかで気持ちいい。けれどそれで綱吉の心が浮上するわけではない。
綱吉は学校というものが嫌いだった。基本的に、雑多な人間が集まって同じことをしている環境に、馴染めない。
どうしても優劣ができてしまうその中で、綱吉はいつだってどん尻だ。それにいつだって好奇のマトになった。どうしてか綱吉は普通の子でいられないのだ。
勉強も運動も最下位なのは普通じゃないらしい。友達を作るのが苦手なのは普通じゃないらしい。母親が娼婦なのも、父親がいないのも、たったそれだけのことを周囲は過敏になって扱う。
今度の学校は、しかも、今までよりずっとそういう学校らしさが強そうだ。夏休みが終わるとどうなるのだろう。
重くため息を天井にむける。
その時廊下からノックの音がして、綱吉はとっさにはーいと声を出した。ドアノブを回してから、もしかしてこれは獄寺への客人だったんじゃないかと思ったが、うっかりそのままドアを開けてしまった。
「やぁ」
「え……」
外にいたのは、昼に会った父さん(自称)とそっくりな顔。綱吉の兄弟だ。遠慮なく室内に入ってくる。
「さっそくパシられてるんだ?」
獄寺の部屋なのに客人を出迎えた綱吉を、そう捉えたらしい。鼻で笑うニヤリとした顔は綱吉を不快にする。不遜で、尊大で、つくづくこの親子を好きになれそうにない。
「来て早々に獄寺を選ぶなんて、母親の血だね」
言っている意味がわからなくて綱吉は眉を寄せた。顔は既に苦虫を噛み潰したようになっているだろう。
「獄寺君呼んできます」
「いや、君に用だよ。これ、邪魔だから」
捨てるのもまずいと綱吉の兄弟が足元に落として寄越したのは、綱吉が彼の部屋の床にぶちまけた封筒だった。膨らんで、書類なんかの中身や取られた私物も中に入っているのだろう。返してもらえたと安堵して無意識に胸元に抱き締める。
「雲雀さん」
下の名前はしらないから、名字で呼ばせてもらう。
「ありがとうございます」
「兄さんとでも呼ぶのかと思った」
その言葉にぼんやり年上だったのかと知る。
「金にがめついくせに、変なの。雲雀家に取り入るんじゃないの?」
「お金??まぁ貧乏ではありますけど俺は別に……」
家柄なんてどうでもよければ、むしろ養子縁組を解除して逃げ出したいくらいだ。お金とはなんの話だ、と困惑した綱吉に兄も驚いた顔をした。
「君、通帳が戻って喜んだんじゃないの」
「通帳??」
そういえば封筒の中身は見てなかったと確認すると、中から通帳と印鑑が出てきた。それを封筒を抱える手に一緒に持つと、ざっと入っているものを確認していく。
目当てのものが見つからなくて綱吉は脇のベッドに全部出して探した。小さくて厚みがあるはずのそれはすぐ見つかるはずなのにどこにもなくて、焦ったように兄を振り替える。
「俺の生徒手帳は?!」
虚を突かれて、兄は首を横に倒した。そんな仕草は父さん(自称)とそっくりだ。
「いらないだろ」
「いるよ!返して!」
かっとなって口調を荒げた綱吉に兄は急に不機嫌そうになった。沸点が低くて、思い通りにいかないとイラついて、それを隠そうともしない。父さん(自称)がここにもう一人いる。
「もう捨てた」
「捨てた?どこに」
「とっくに回収されてるよ」
足から力が抜けて、綱吉は立てなくなった。例えるなら、絶望していた。
「通帳には支度金が入ってる。毎月いくらか振り込まれるだろう。君が前の生活にこだわる必要はないだろ」
本気で分からない兄が、けろりという。金だ金だと、それがなおさら嫌悪感をひどくする。
「あんたみたいに金しか考えてないやつには分からないよ」
「それは君だろ」
思ってもない反撃だった。
「君と血が繋がってるなんて思ってないさ。今になって雲雀の子供だなんて、君の母親が金に困っただけだろ。親が親なら子も子だ。僕が駄目なら次は獄寺?イタリア屈指の富豪とルームシェアなんてどうやったんだか。獄寺は骨のある奴だと思ってたけど、たかが知れたよ」
「確かにあんたと血なんて繋がってない」
「白状するんだ?」
「でも、母さんはそんなんじゃない。養子を進めたのはあんたの親父だ。獄寺君だって、あんたになにも言われる筋合いはない」
「あの人が養子を?子供がこんなに大きくなってから?」
動揺を滲ませて兄は聞き返した。
どうして今更、というから綱吉はもしかしてこの人はなにも知らないんじゃないかと思い至った。
いきなり子供になった綱吉はともかく、兄に対しては態度が違うだろうと思っていたが、父さん(自称)は寮に来ておきながら子供に会いに行こうとした様子はなかった。綱吉には封筒ひとつで終えたけれど、粗雑な扱いは綱吉にだけじゃないのかもしれない。
すとんと綱吉は落ち着いてしまった。
それなら、綱吉は怪しかっただろう。説明もなしに弟が部屋にあらわれたのだ。
「たぶん、昔の馴染みの娼婦が死んだのをどこかで聞いたからだと思います。女から足が遠退いてもお客さん同士は繋がりがあったりするって聞きました。俺のことは、たぶん本当に知らなかったんだと」
「君の母親……」
「ごめんなさい。お客だったのは確かです」
「なにそれ、じゃあ血が繋がってるかもしれないじゃない」
迷わず首をふった綱吉に兄は今度は呆れる。根拠があるようには見えなかったのだろう。確かにない。はっきりした根拠があれば、そもそもこんなことになってない。
けれど綱吉にとっては100%だ。
「あの人母さんの趣味じゃないし」
兄は面食らって切れ長の目を見開いた。そうすると、黒目が小さいのがよくわかって、それだけ目を大きく開いたように見えて少し愛嬌がある。
しばらくそうしていたけど、ニヤリと笑ってネズミをいたぶった猫のように充足感のある顔をした。
「あの人に惚れるなんてたしかに最悪だ」
あんたそっくりですよ、とは言わずに綱吉は兄を見上げた。
しばらく意地の悪い顔をしていたと思うと、くるりと綱吉を真正面から見て性格悪そうに笑いかけた。
「君、面白い」
「はぁ」
誉められてるのかよく分からないが、なんだか彼はご機嫌だ。
軽快にきびすを返して部屋を出ると、ドアを閉めきる前の最後、目だけ見えるような隙間を残して振り返った。
「母親のこと、ごめん」
え、と一言漏れる前にドアはガチャリと音がでるまで閉められてしまった。
閉める前、驚いた綱吉の顔を見てしまった兄の方は湧いてくる照れ臭さを、顔をしかめることで表に出さないようにしてまっすぐ部屋へ戻った。
雲雀はてっきり、金目当ての親子が厚い面の皮でやってきたのだろうと思っていた。後妻におさまった母親は図々しく本家で過ごしているのだろうと。
死んでるなんて考えなかった。
強引に養子縁組をされて困っているあの少年が、今なら目に浮かぶようだ。
自分の想像に苦笑して、兄は自室の鍵をかけて机についた。
無造作に置いていた小さな手帳を手にする。沢田綱吉という名前や生年月日、学校名、校則などが書かれたそれは、表紙を開いた所でカバーに紙が挟んであった。山本武、080の携帯番号に住所。