オーブンの神様
メインディッシュを食べ終わって、いよいよデザートのはこびとなった。私は旦那さまのために紅茶をいれる。私が執事として、最初におぼえた仕事が紅茶をおいしくいれることだ。
「今日の紅茶は、マリアージュフレール社のエロスでございます」
「…おまえ、本当にそういうの好きだね」
旦那さまがあきれて笑う。
「だからクロードは、ムッツリすけべなんだよー」
旦那さまはなおも笑っていたが、紅茶をいれ、デザートの皿を目の前に置くと、その笑いは鎮まりかえった。
「クロード、これ…」
旦那さまは驚いて私をふり返る。
「ピュイ・ダム。『愛の泉』という意味だそうです。慈善家が、クリスマスの夜にくばるのにふさわしい名前ですね」
「…おまえはうんちくがうるさいんだよ…」
最後のほうの言葉はかすれていた。
「紅茶とケーキが冷めないうちにお召しあがりください」
ピュイ・ダムを、オーブンを低温にして、もういちど暖めなおしたほうがいい、と言ってくれたのはハンナだ。口をひらけばたいがいにくまれ口だが、細かいところまでよく見ていて、必要なときはさりげなく口か手を出してくる。
「…うん」
旦那さま、フォークを持つ手がふるえる。
6歳の、弟と2人で祝ったクリスマス。今は5人の悪魔にかこまれたこの箱庭で祝う。
私は、旦那さまのふるえる手からフォークを取る。ピュイ・ダムのまん中にフォークをさして、パイ生地の部分となかのクリームとジャムを同時にすくう。ひと口ぶんにすくったピュイ・ダムを、旦那さまの口もとに持っていく。
「旦那さま、あーん」
旦那さまは、あっけにとられて私を見ている。あきれて涙も引っこんだらしい。
「あーん、って、おまえ人を子供みたいに…」
なんとか、ふるえる唇でにくまれ口たたく。笑ってるのか、泣いているのか。
「あーん」
旦那さまはそう言うと、すこし笑って口をあけた。
もう、その手はふるえていない。眼がすこしほほえんで、そしてしずかに私を見つめている。
私ははやる気持ちをおさえ、せっかくすくったパイがフォークからこぼれないように、そっと旦那さまの口の中へ運ぶ。
「ん…」
旦那さまはそっと唇をとじた。まるで食べてしまうのがおしいとでもいうように、大事な何かをたしかめるように。
それでも、やがていつかは口の中でとけて消えてしまう。
「…うまいよ」
ふっと、小さなため息がもれる。
「あの日、クリスマスにルカと食べたのと同じだ。名前も分からなかったのに、…さすがはクロード」
「ありがとうございます」
「どうして…」
「……」
「どうしてクロードは、オレのことをこんなに知っているの?」
「旦那さま…」
私は空いている左手でしずかに旦那さまの手をとり、そして握った。
「私はあなたの執事です。私はあなたのすべてに寄りそい、すべてを支え、そして導く」
「導く…、オレに導くものなんて何もないかもしれないよ」
「その時は2人でつくればいい」
旦那さまは小さく眼を見ひらいて、私のほうをじっと見つめた。
アイスブルーの瞳の奥で、何かがゆれる。
「おまえは執事のくせに、なまいきなんだよ…」
つよがる言葉とはうらはらに、その声はかすれ、今にも消え入りそうだった。
私はこらえきれず、持っていたフォークをわきに置き、旦那さまを抱きしめる。
「クロード…」
旦那さまが私の胸に頬をよせる。プラチナブロンドの髪のあいだから、白くてほそいうなじがみえた。
私はそのうなじに口づける。旦那さまがびくっと、体をすくめるのがわかる。ほそくて、白くて、やわらかい体。私はさらに腕をまわし、その体を強く抱く。その体は温かく、やわらかい。
旦那さまが、小さなため息をもらす。
「クロード、行かないで…」
「なまいきなんだよ」、とつよがるかと思えば、「行かないで」、とすがりついたり。旦那さまの言葉と心は、いつも不安定にふるえている。
そのふるえる心を、いつまでもかたわらに置いておけるなら。
「あなたは私の旦那さま」
私は旦那さまの耳もとで、しずかに誓う。
「ゆえに、わたしはここに」
私は旦那さまの小さなあごを引きよせると、そのくちびるに口づけた。くちびるを重ねて、舌を吸う。まるで何かにすがりつくように。
もしかしたら、すがりついているのは私のほうかもしれない。
ピュイ・ダム。愛の泉。
あのパイにこめられた私の気持ちは届いたのだろうか。
答えはない、答えはないままに、私は旦那さまにくちづける。
『私は旦那さまを、飽くまでむさぼりたい…』
心の中でささやきながら…。