オーブンの神様
旦那さまの矛盾は、そこから来ているのかもしれない。私にはその見えない過去の傷が、まるで旦那さまそのもののようにはかなく光る。
ふれることのできない過去の傷に、何かをとどけることができれるのだろうか。
できればいい、できるのなら、と心から思う。
パイのように時間のかかるものを、何かのついでに作ろうとするから時間が足りなくなるのだ。
私は旦那さまが寝ている夜中に、試作をすることにした。
窓の外では雪が降っている。生地に練りこむバターがとけてしまうと困るので、オーブンにまだ火は入れていない。火のない深夜の厨房は冷蔵室のようだ、吐く息が白い。
こんな寒い雪の夜に、薪を買う金もなく、火のない家のなかで弟と2人でふるえていた6歳の旦那さま。旦那さまはあまり昔のことを話したがらない。思い出したくもないのだろう。ピュイ・ダムの話が聞けたのは、思えばすごい偶然なのかもしれない。
粉にバターを練りこんで、パイ生地を作る。粉とバターをなじませることで、サクッとした食感のパイに焼きあがる。
それを折りたたんでは伸ばし、折りたたんでは伸ばして、何層もの生地を作る。
夜中にひとりで粉を練る。静かで集中した感じが私は好きだ。
パイ生地を寝かせてまた伸ばし、タルトの形に焼く。そのあいだにカスタードクリームを作る。パイにつめるものだから、あまり水っぽくならないようにかたさを調節する。
オーブンに薪をくべるような力のいる作業から、なかにクリームをつめてパイ生地をかぶせるようにふたをする細やかな作業まで、ひとつのパイを作るのに、いろいろな作業がある。
そのひとつひとつの作業を積んでいく。きちんと積めば、見た目も食感ももうしぶんなく膨らんだサクサクのパイができる、てきとうに積めば、かたよった膨らみをした雑ななパイができあがる。いい生地ができる日と、少し雑な作業がめだつ日と。本職ではないので、うっかり気を抜くとすぐに雑な仕上がりになってしまう。
旦那さまはその違いにすぐ気づく。「今日はまぁまぁだね」とか、「今日のはクソうまいよ、なんで?」とか。その素直な言葉が、何よりうれしい。
その言葉だけが、私を動かす。
タルト部分に軽く火を通し、クリームとジャムをつめて、パイ生地を上からかぶせて焼く。オーブンに入れる時点で、すでに仕上がりのよしあしがあらわれる。今日のは悪くない。クリスマス当日も、こうあってほしい。
形を整えたパイをオーブンに入れて焼く。ここから先は、オーブンの神様の仕事だ。私は炉の火かげんを見守り、使いおわった調理器具を片つける。
やがてオーブンから、パイの焼けるなんともいいにおいがただよってくる。バターの焦げるこうばしい香り。釜を開けるまでもない、今日のパイはじょうできだ。
雪が降る。雪に降りこめられたトランシー邸は、まるで箱庭のようだ。クリスマスなのに誰かを呼ぶ予定も、呼ばれる予定もない。そこだけで完結した、小さな世界。
クリスマスイブの日、私はいつもよりていねいに、ていねいにパイを焼く。
ピュイ・ダム。愛の泉、このパイの名前と言葉の意味を知ったら、旦那さまはなんと言うのだろう。笑うだろうか。
笑ってくれてもかまわない、と思う。悪魔がクリスマスに愛の泉なんて名前のパイを焼く。本当にどうかしてる。
それでも、旦那さまのクリスマスの思い出の中に何かが届くなら、と思う。きれいに焼きあがったピュイ・ダムは、かたいパイ皮の殻に包まれて、まるで亀の甲らのようだ。そのなかに、血のしたたるような赤いジャムが入っているのが、なんだか切なかった。
ピュイ・ダム、旦那さまは喜んでくれるだろうか。
夕食の準備をすすめながら、食堂のクリスマスツリーの飾りつけを点検しながら、私は落ち着かなかった。旦那さまが聖夜に望むものはなんだろう?
「うわぁ、なんかクリスマスっぽいね」
気がつけば旦那さまが隣にいて、クリスマスツリーを見あげてる。
「おっきいね、このツリー。クロードが森から切ってきてくれたの?」
「はい、庭にちょううど手ごろな大きさの、もみの木があったものですから」
正確に言うと、切ったのは例によって三つ子だ。クリスマスツリーにする木を切りに庭の森に行くとき、三つ子はぶつぶつ言いながらもついて来た。そして、「これがいい」と、大きさも、枝ぶりもクリスマスツリーにぴったりの1本を指さした。「旦那さま、これみ見てっくりするかな」「よろこんでくれるかな」「よろこんでくれるかもね」そう言いながら。
「どうやって運んだの?」
「三つ子に運ばせました、ティンバーが先頭、トンプソンが真ん中、カンタベリーがしんがりで、3人で持ち運ぶのにちょうどいい大きさでした」
「あはは、なんだ、おまえが運んだわけじゃないんだね、手がら横どりすんなよ」
そんなつもりはなかったので、手がら横どり、と言われていささか驚いた。
「男4人で、クリスマスツリー切りに森へピクニックかよ」
…なんとでも言ってください。
旦那さまはなおもうれしそうに、けらけら笑っている。
「クロード、おまえ、ピクニックとかハイキングとか、健康的なイベントがとことんにあわないね」
目に涙まで浮かべながら。
「でも、こういうの悪くないよ」
「ありがとうございます」
涙にうるんだ眼で、旦那さまが私を見あげる。アイスブルーの瞳に見つめられて、私はとまどう。
プラチナブロンドの髪も好きだが、私は旦那さまのパーツのなかで、このアイスブルーの瞳がいちばん好きだ。おこったり、笑ったり、くるくるとよく動く。そのくせ、何を考えているのかさっぱりわからない。
「いっぱい笑ったらおなかすいちゃった、ごはんまだ?」
「少々おまちください」
料理となれば、私の出番だ。
今日のメニューは、ローストターキー、クランベリーのソース添え、クレソンのサラダ、それから、フィっシュ&チップス。。
クリスマスのメニューに何がいいですかと聞いたら、ここでも「フィッシュ&チップス」と言われたのにはさすがにあきれた。でもまぁ、クリスマスだからといって、無理やりアメリカの風習を持ち出して、いまさら感謝がどうのというより、このほうがよっぽど旦那さまらしい。
「うわぁ、このチキン、とってもジューシーだよ、全然パサパサしてない。こんなうまいチキン、はじめて食ったよ」
「おそれ入ります」
私たち悪魔には分からない、食事という習慣。最初のうちはよく味付けをまちがえて、旦那さまにどなられたものだ。
旦那さまは私を、料理がクソうまい、とおっしゃるが、それはちょっと違う。
私は料理がうまいんじゃなくて、ただ単に、旦那さまの好みの味にしあげるのがうまいだけだ。
旦那さまがいつものように、油切れの悪いフィッシュ&チップスをうまそうに食べる。旦那さまにとっては、油切れのよいフィッシュ&チップスは邪道らしい。
「そうそう、これこれ、油切れの悪いフィッシュ&チップス!」
今日もうれしそうだ。