ワルプルギスの夜を越え 1・墜ちてきた暗闇
木々に夜露が降りる頃
少女の息はよりいっそう細く途切れるまでの時間を刻みだしていた。
陽の届かない石造りの壁は風に当てられ、わずかな暖かさを残していた彼女の部屋を氷の世界へと変えていた。
いや、氷の世界ならまだ良かった。
白銀の壁であるのなら彼女は夢の中で逝けたかもしれない。だけどそこは違う。
そこは部屋と呼ぶ事のできない薄汚れた場所。
土を緑色に変えた汚泥の束と、朽ちて穴あきだらけ藁。
投げ置かれた芋に鮮度はなく、鼻にツンと付く匂いを漂わせる。
匂いはそれだけに留まらず、狭い箱の部屋の中を十分に満たしあふれ出る程のものとなっている。
ここはゴミ捨て場なのだ。人の住む場所ではないところに少女は閉じ込められている。
もう何日も腐った芋を投げ込まれ、汚物の処理もできず、近づく冬本番の寒さから逃れるために僅かなエサを求める地中の虫とねずみに追い詰められながらやっとで生きていた。
いや、死に始めていた。
部屋の角を陣取り逃げ場のない四方を石壁でふさがれた場所で。
高く積み上がった石壁の上部には木板をしいただけの屋根があるが所々で朽ちて折れ、つぎはぎの空を見ることだけはできた。
崩れた屋根の一角から除く白い月を彼女は細くなった眼で見上げていた。
少女は………男坊主のように短く刈り取られた黒髪の下で涙の瞳で、両手をしっかりと組み合わせ祈っていた。
祈るように語っていた。
「アルマ………私、間違ってた………私、間違えてた」
悔恨を刻む言葉が、痩せて浮き上がるのど仏から零れる。
唇はひび割れ、前歯を毟り取られた口から弱った息が白く細く続く
「どこかに行きたかったの………遠くに、もっと遠くに。町の中だけの世界から逃げたかったの」
悲惨すぎる身の上に皮肉の光が注ぐ。
柔らかい月明かりが、青い光の中に彼女を立たせる。
頭抜きで被った袋。筒状の服一枚、船のボロ帆を塩に焼けた浅黒く硬い布地を羽織る体は痛々しすぎる痩せた手足を見せていた。
骨の隆起が見せる陰影の深さで、まるでミイラが立っているようにさえ見える。
四方を詰めた石部屋の上から木板の抜け目を通って冷たい風が肌を切る音を奏でて吹き下ろす。
風に押されて弱々しい足は挫かれ石壁にもたれかかるようにゆっくりと倒れた。
音は軽く、力のない体は腐土のベッドにうつぶせたまま呻いた。
「こんな事になるのなら………私、羊小屋を出るんじゃなかった………町にいればよかった」
生気の無い瞳、枯れた目から涙は止まらなかった。
痩せた頬骨を伝い落ちる、何もかもが乾いた中で少女の声だけは歳相応の潤いがあったが、それがより痛々しい姿を強調しているに過ぎなかった。
祈りの姿で抱えていた手の中で、その石の輝きはとっくに消えていた
ガラスの中を曇らすどす黒い泡は、輝きの石だったものの底から何度も末尾の泡を吐き出し、滑らかな表面に強く痛みを走らせ亀裂を作り始めていた。
泡の当たる音に少女の鼓動は同期していた。
何度もの衝撃に体は痙攣を起こし始めていた。
「ああアルマ、アルマ、私貴女にあいたいよ………会いたいよ」
死のために最後の奉仕をする神経節は痙攣を続ける中で、少女は最後の力を痺れと繋ぎ体を仰向けに返した。
ドロを被った汚れた顔、口に詰まった土を払う力もないままで、繰り返し助けとも祈りとも言えぬ言葉は続いて行く。
潤いは血の滲みに代わり声は錆び始めていた。
「会いたいよ、みんなと一緒にいたいよ………みんなところに帰りたいよ。私を助けてよ………アルマ…」
痩せた節の指、枯れ木のような手を月に向かって伸ばす。
胸に抱いた宝石は真っ黒にそまり亀裂から赤黒い泡があふれ出していた。
「アルマ…私、もうダメ…」
その日、東の方にあった修道院の上に黒い雲が山の方の全てを覆うように広がった。
真夜中の出来事だったが雷鳴を伴った急な雨の陽があったと羊飼い達は過日に思い出す事になる。
その日、裾の付近を羊と共に歩いていた少女がいた
響く雷鳴に戦きながら近くの木立の影に隠れた少女一人、裾のに続く小さな丘から山頂を黒く塗り替える影を見つけた
羊たちをまとめながら
「雨?なの?」
急速に広がり溝川の濁りのように膜を張って変質する灰色の雲の中に、赤く光る獣の目と生々しく動く木々の影に身を抱きながらただ見つめていた
「雷の中に…何かいる?」
Gespenst(ゲシュペンスト)*1の出現。動く影に身震いしながら、手の中の火打ち石を握った
「獣め…きたら燃やしてやる」
歯がみして震えながら一夜が過ぎるのを待った
入れ替わりに黒の夜は愛噛む姿を見せた日。深く暗い闇へとの道は繋がり、不穏な風だけが裾野の町に伝わった。
だけどこの時はまだ誰も、滅びの日へのカウントダウンが始まったとは気が付かなかった。
『近いのよ!!感じるの!!』
少女は走っていた。
いや走るというよりもまるで木々の間を飛び回る鳥のように、滑らかな足先を晒して風に乗っていたが、開かぬ口の中で頭の中に響く声に苛立っていた。
『無理だよ、ここは遠いんだ。間に合わないよ』
『遠くない!!町に近いぐらいだわ!!』
先を行く背中に語りかける声は抑揚を抑え、感情を殺すように続ける
『アルマ、危険なだけだよ』
アルマ、そう呼ばれた少女は振り向かなかった。
赤みかがった長い髪を後ろに丸く編み込み、オーガンジーに金糸を彩った髪隠しを小さなカチューシャで支え黒の帽子を被った横顔は目をきつく尖らせたままで前を見ていた。
木々の間を抜ける街道、東の方の修道院から下る山道は難所ではあるが教会の保護の元にある安全な道。
なのに今日は夜をより黒く濁らせる霧が立ちこめている
『魔女はいる…この先に!?』
危機を告げる思考の直後、あふれ出た闇のがかき消した道の中から馬の鳴き声が響いた。
静かだった森の中を、木を押す程の雄叫びとそれに続く人の声
「たすけ…たすけてー!!」
悲鳴は聞こえた、近い、飛ぶように走っていた少女の足並みは警戒を感じて止まる。
経験が飛び込んで行く事を禁じたからだ。
それ程に前方に続く街道を隠す闇は深かった。漆黒は光を介さない世界を地を這って広げている。煙とも靄ともいえないものは徐々に森を包もうという勢いの中で、アルマはスカートを覆う大きめのカバーを整え、息も静かに押さえ目を凝らす。
漆を塗るように青い夜の空を穢していく影を睨む。
『キュゥべえ、森が動いているように感じるわ…すごく大きな魔女?使い魔達?両方?』
警戒が自分の後ろを走っていた者に助言を求めた。
ネコのように柔らかい動きで後を追っていたそれは止まると、真紅の瞳を向けて
『魔女だよ、それと使い魔…凄く大きいけど散漫な感じだね。まだ若いのかもしれないね』
アルマを落ち着かせる事を手伝うように、彼?の言葉運びは静かだ。
白い四肢、姿はネコか狐のような彼は丸い顔と長い耳をもった頭を左右に振る。
『アルマ、もう気配は去っていこうとしてるよ。深追いするのは良く無い』
キュゥべえに言われるまでもなくアルマも感じていた。一度は大きく目の前に広がった塗り壁のような闇は今、翳み木々の姿をいつもどおりに見せ始めていた
『消えたの?』
少女の息はよりいっそう細く途切れるまでの時間を刻みだしていた。
陽の届かない石造りの壁は風に当てられ、わずかな暖かさを残していた彼女の部屋を氷の世界へと変えていた。
いや、氷の世界ならまだ良かった。
白銀の壁であるのなら彼女は夢の中で逝けたかもしれない。だけどそこは違う。
そこは部屋と呼ぶ事のできない薄汚れた場所。
土を緑色に変えた汚泥の束と、朽ちて穴あきだらけ藁。
投げ置かれた芋に鮮度はなく、鼻にツンと付く匂いを漂わせる。
匂いはそれだけに留まらず、狭い箱の部屋の中を十分に満たしあふれ出る程のものとなっている。
ここはゴミ捨て場なのだ。人の住む場所ではないところに少女は閉じ込められている。
もう何日も腐った芋を投げ込まれ、汚物の処理もできず、近づく冬本番の寒さから逃れるために僅かなエサを求める地中の虫とねずみに追い詰められながらやっとで生きていた。
いや、死に始めていた。
部屋の角を陣取り逃げ場のない四方を石壁でふさがれた場所で。
高く積み上がった石壁の上部には木板をしいただけの屋根があるが所々で朽ちて折れ、つぎはぎの空を見ることだけはできた。
崩れた屋根の一角から除く白い月を彼女は細くなった眼で見上げていた。
少女は………男坊主のように短く刈り取られた黒髪の下で涙の瞳で、両手をしっかりと組み合わせ祈っていた。
祈るように語っていた。
「アルマ………私、間違ってた………私、間違えてた」
悔恨を刻む言葉が、痩せて浮き上がるのど仏から零れる。
唇はひび割れ、前歯を毟り取られた口から弱った息が白く細く続く
「どこかに行きたかったの………遠くに、もっと遠くに。町の中だけの世界から逃げたかったの」
悲惨すぎる身の上に皮肉の光が注ぐ。
柔らかい月明かりが、青い光の中に彼女を立たせる。
頭抜きで被った袋。筒状の服一枚、船のボロ帆を塩に焼けた浅黒く硬い布地を羽織る体は痛々しすぎる痩せた手足を見せていた。
骨の隆起が見せる陰影の深さで、まるでミイラが立っているようにさえ見える。
四方を詰めた石部屋の上から木板の抜け目を通って冷たい風が肌を切る音を奏でて吹き下ろす。
風に押されて弱々しい足は挫かれ石壁にもたれかかるようにゆっくりと倒れた。
音は軽く、力のない体は腐土のベッドにうつぶせたまま呻いた。
「こんな事になるのなら………私、羊小屋を出るんじゃなかった………町にいればよかった」
生気の無い瞳、枯れた目から涙は止まらなかった。
痩せた頬骨を伝い落ちる、何もかもが乾いた中で少女の声だけは歳相応の潤いがあったが、それがより痛々しい姿を強調しているに過ぎなかった。
祈りの姿で抱えていた手の中で、その石の輝きはとっくに消えていた
ガラスの中を曇らすどす黒い泡は、輝きの石だったものの底から何度も末尾の泡を吐き出し、滑らかな表面に強く痛みを走らせ亀裂を作り始めていた。
泡の当たる音に少女の鼓動は同期していた。
何度もの衝撃に体は痙攣を起こし始めていた。
「ああアルマ、アルマ、私貴女にあいたいよ………会いたいよ」
死のために最後の奉仕をする神経節は痙攣を続ける中で、少女は最後の力を痺れと繋ぎ体を仰向けに返した。
ドロを被った汚れた顔、口に詰まった土を払う力もないままで、繰り返し助けとも祈りとも言えぬ言葉は続いて行く。
潤いは血の滲みに代わり声は錆び始めていた。
「会いたいよ、みんなと一緒にいたいよ………みんなところに帰りたいよ。私を助けてよ………アルマ…」
痩せた節の指、枯れ木のような手を月に向かって伸ばす。
胸に抱いた宝石は真っ黒にそまり亀裂から赤黒い泡があふれ出していた。
「アルマ…私、もうダメ…」
その日、東の方にあった修道院の上に黒い雲が山の方の全てを覆うように広がった。
真夜中の出来事だったが雷鳴を伴った急な雨の陽があったと羊飼い達は過日に思い出す事になる。
その日、裾の付近を羊と共に歩いていた少女がいた
響く雷鳴に戦きながら近くの木立の影に隠れた少女一人、裾のに続く小さな丘から山頂を黒く塗り替える影を見つけた
羊たちをまとめながら
「雨?なの?」
急速に広がり溝川の濁りのように膜を張って変質する灰色の雲の中に、赤く光る獣の目と生々しく動く木々の影に身を抱きながらただ見つめていた
「雷の中に…何かいる?」
Gespenst(ゲシュペンスト)*1の出現。動く影に身震いしながら、手の中の火打ち石を握った
「獣め…きたら燃やしてやる」
歯がみして震えながら一夜が過ぎるのを待った
入れ替わりに黒の夜は愛噛む姿を見せた日。深く暗い闇へとの道は繋がり、不穏な風だけが裾野の町に伝わった。
だけどこの時はまだ誰も、滅びの日へのカウントダウンが始まったとは気が付かなかった。
『近いのよ!!感じるの!!』
少女は走っていた。
いや走るというよりもまるで木々の間を飛び回る鳥のように、滑らかな足先を晒して風に乗っていたが、開かぬ口の中で頭の中に響く声に苛立っていた。
『無理だよ、ここは遠いんだ。間に合わないよ』
『遠くない!!町に近いぐらいだわ!!』
先を行く背中に語りかける声は抑揚を抑え、感情を殺すように続ける
『アルマ、危険なだけだよ』
アルマ、そう呼ばれた少女は振り向かなかった。
赤みかがった長い髪を後ろに丸く編み込み、オーガンジーに金糸を彩った髪隠しを小さなカチューシャで支え黒の帽子を被った横顔は目をきつく尖らせたままで前を見ていた。
木々の間を抜ける街道、東の方の修道院から下る山道は難所ではあるが教会の保護の元にある安全な道。
なのに今日は夜をより黒く濁らせる霧が立ちこめている
『魔女はいる…この先に!?』
危機を告げる思考の直後、あふれ出た闇のがかき消した道の中から馬の鳴き声が響いた。
静かだった森の中を、木を押す程の雄叫びとそれに続く人の声
「たすけ…たすけてー!!」
悲鳴は聞こえた、近い、飛ぶように走っていた少女の足並みは警戒を感じて止まる。
経験が飛び込んで行く事を禁じたからだ。
それ程に前方に続く街道を隠す闇は深かった。漆黒は光を介さない世界を地を這って広げている。煙とも靄ともいえないものは徐々に森を包もうという勢いの中で、アルマはスカートを覆う大きめのカバーを整え、息も静かに押さえ目を凝らす。
漆を塗るように青い夜の空を穢していく影を睨む。
『キュゥべえ、森が動いているように感じるわ…すごく大きな魔女?使い魔達?両方?』
警戒が自分の後ろを走っていた者に助言を求めた。
ネコのように柔らかい動きで後を追っていたそれは止まると、真紅の瞳を向けて
『魔女だよ、それと使い魔…凄く大きいけど散漫な感じだね。まだ若いのかもしれないね』
アルマを落ち着かせる事を手伝うように、彼?の言葉運びは静かだ。
白い四肢、姿はネコか狐のような彼は丸い顔と長い耳をもった頭を左右に振る。
『アルマ、もう気配は去っていこうとしてるよ。深追いするのは良く無い』
キュゥべえに言われるまでもなくアルマも感じていた。一度は大きく目の前に広がった塗り壁のような闇は今、翳み木々の姿をいつもどおりに見せ始めていた
『消えたの?』
作品名:ワルプルギスの夜を越え 1・墜ちてきた暗闇 作家名:土屋揚羽