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ある夕方のこと

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「はぁ……」
 げんなりと肩を落としてため息を吐く。
 背中を丸めて歩きながら、右に左にふらふらとして。
 肉体ではなく精神的な疲れ。
 ため息を吐くと幸せが逃げるという。本当かどうかわからないが、少なくとも今のアンディを幸運の女神が見たら迷わず避けて通りそうだ。
 なにしろ、元気がないだけでなく、空中をにらみつけるように目を据わらせていて、口を への字に曲げていて、『何も寄せ付けない』オーラを発している。とくに、背後に向かって。
 前から来た生徒がビクッとして通路の端に避ける。
 それくらい見るからに機嫌が悪そうだった。
 確かに悪い。最悪の気分だ。
「アンディ。あんまり短命なやつを選ぶと決められたレポートの枚数に届かねぇぞ」
「だから、誰でもいいよ、もう……」
 後ろからの声にムスッとして投げやりに返す。
 めんどくさい。ただひたすらにめんどくさい。
 まず、レポートがめんどくさい。これは仕方ない。授業の課題なんだし、『めんどくさい』で済む話じゃない。やらなければならないことだ。
 次に、バジルがめんどくさい。これもまあ、ペアになってしまった以上仕方のないことだが、とにかくどの作家の名前をあげても却下の一言で、なかなか決まらない。こうして放課後の執行部の会議が始まるまでの間のわずかな時間を割いて学校の図書館まで来てるというのに、わざとじゃないか、嫌がらせじゃないかと思うくらい、あの作家は気に入らない、この作家はよくない、ダメ・ダメ・ダメ……。
 逆に誰ならいいんだ。
 ところが、バジルの方は、自分で決める気はないようで。
 図書館の中を後ろからついて歩きながら、文句だけは言ってくる。
 はっきり言ってお手上げだ。どうしようもない。
 そして次に、ウォルターがめんどくさい。
 あの後……教室でのバジルとのキスを目撃されたらしい後……ウォルターは昼食を一緒にとろうと思ってアンディを迎えに来ていたわけで、ふたりでとりあえず学食に行ったわけだが……。
「……」
「……」
 向かい合って無言で食べるパスタのおいしいこと、おいしいこと。
 ただの沈黙ではない。
 お互いしゃべることが山ほどある上でのあえての沈黙。
 ふたりの頭上に漂うどんよりと重たい空気。
 いつもウザいくらいにアンディにお構いなしに話しかけてくるウォルターが、黙りこくって フォークを動かしている。
 はっきり言って不気味だった。
 いや、それより、原因がわかっている分、気まずくて仕方がない。
 それはそれでせっかくの昼食なので食べることは食べたが、ゴムを噛んでいるようなものだった。味がしない。飲みこめない。
 口から出したい言葉が喉元につっかえていて、食事どころではない。
 それでもなるべく気にしないようにと食事を続けたアンディだが、とうとうカチャンとフォークを置いてウォルターが口を開いた。
「……なぁ、アンディ。さっきアイツとキス……」
「見間違いだよ」
 しまった、早かった。
 相手の言葉を遮る形になってしまってアンディは内心舌打ちをした。
 触れてほしくないことだっただけに、過剰に反応してしまった。
 なるべくなんでもないように、なんでもないようにと気をつけて、声を抑えて静かに言った。
「遠かったし、ノートで隠れてたし、内緒話してたのを勘違いしただけでしょ。こんなところで変なこと言わないでくれる? 誰かに聞かれたらどうすんのさ」
 最後は少しとがめるように言ってジトッとにらみつける。
 ウォルターは明らかにムッとしたようだった。
「……じゃあ、なんの内緒話してたのか教えろよ」
 じっと目を見据えて、わざとらしく大きな声でゆっくりと言う。
 疑っていることを隠しもせず。
 アンディはふっと息を吐いた。
 ここで自分も熱くなったら終わりだ。
「ウォルター、『内緒』の意味、わかってる?」
「俺も内緒にすればいいだけだろうが。それともアンディ、俺が信用できない?」
「聞かない方がいいよ。ウォルターの悪口だから」
「えっ」
 さすがに予想外だったか、ウォルターがぽかんとする。
 勝った、とアンディは内心でぐっと拳を握った。
 やった、うまくかわせた。
 これでもうウォルターは追及してこないだろう。
 そうアンディは思った。
 だが、ウォルターは呆然とした顔のまま、首をひねってアンディに訊ねた。
「……おまえとアイツがふたりでくっついて俺の悪口? いつからそんなに仲良くなったんだよ」
 言い終えてからいかにも不可解そうに顔をしかめる。
「あー……」
 しょっちゅう一緒にいるだけあって、ウォルターはバジルがアンディを嫌っているということを知っている。そしてまた、アンディの方も決してバジルを好いてはいないということも。ふたりが幼馴染みで、昔からアンディが嫌がらせされていたことまでも知っている。仲が悪い、と思われていて当然だろう。事実そうだし。
 ウォルターとバジルも仲が悪い。っていうか、バジルは大抵の人間とうまくいかない。それはバジルが人間を汚いと嫌っているからで……。
 とにかく、そんなバジルとふたりくっついてウォルターの悪口を言う……なんとも不自然だ。
「今日はたまたまだよ」
「たまたま仲が良いってなんだよ」
「うるさいな……」
 即座に返るツッコミにイライラする。
 これでこの話はおしまい、という意味をこめて、強く言い切る。
「とにかく、今日は授業の課題でペアを組んだから、一緒にいただけだ。それだけだよ」
 止まっていたフォークを動かしてパスタをパクッと口に入れてもぐもぐとする。
 もう話す気はないよ、と。
「そっか……」
 腑に落ちない様子ながらも、ウォルターも口を閉じた。
 しかし、同じ執行部であり放課後にも会うし、そうでなくとも寮の同室なので、帰ってからも一緒だ。
 また問い詰められる恐れがある。
 何かまだ言いたげだったから、その可能性は高い。
(めんどくさい……)
 ああ、めんどくさい。すべてが面倒だ。どれも片付くのがいつになることやら。
(とりあえず目下の課題……)
 授業のレポート……の、世界中の作家の中からひとり選ぶこと。
 ……選んでからもその生涯をレポートにまとめることを(バジルと!!)しなければならないのに、このままだとどうなることやら。
「もうさ、全集の前に立って目をつぶって最初に手につかんだやつにしない?」
「あ? 何言ってんだ、てめぇ」
 後ろのバジルに向かって言うと、心底嫌そうに目をすがめて言葉を返してくる。
「俺は成績いいんだよ。おまえのせいで落としたくない」
「……」
 じゃあ自分で決めろよ、と喉まで出かかった。
 でも、言い合いになっても面倒だ。
 もういい、とりあえず全集の置いてある棚まで行こう、とアンディは諦めて足を向けた。
「待てよ」
 バジルが変わらず後をついてくる。
 なんだか辺りをキョロキョロと見回しながら。


作品名:ある夕方のこと 作家名:野村弥広