ある夜のこと
『なんでもないことなんだよ』……この一言がいけなかった。
後から考えると。
会議が無事に終わり、ふたりは与えられた寮の自室へと戻った。
長引いた会議のせいで、もう7時を過ぎていた。
扉を開け、パチンとウォルターが部屋の電気を点ける。
一気に明るくなる室内。
アンディはウォルターに押し込まれるようにして中に入る。
会議中もイライラとした様子で壁をにらみつけ、ガタガタと椅子を揺らしていた彼は、寮に戻るまでの間中、終始無言で、けれどもアンディを逃がさないというようにそばを離れず、連行するように隣を歩いた。
アンディは帰る間にでも簡単に説明してしまおうと最初は軽く考えていたが、ウォルターの怒りは想像以上で、話しかけられる空気ではなかった。
ウォルターは険しい表情で、鼻の頭に皺を寄せ、歯をむき出しにして、舌打ちを連発し、時々鋭い目線をくれる。
これでは、何か話しかければその場でケンカになりそうだ。
アンディは寮の自室に戻るまで弁解することを諦めることにした。
部屋に入ってすぐに、ブレザーを脱ぐ暇もなく、腕を引っ張られて部屋の中央に連れていかれる。
鞄が手からドサッと落ちた。
「ちょっと!!」
放課後からの乱暴な扱いに、さすがに頭に来る。
説明させてくれたらいいのに、理由も聞かずにこのアンディの意志を無視した強引さ。
もう決めつけられているようで、話なんて聞く気もないんじゃないかと思えるほどの。
「なんだよ、ウォルター!!」
ケンカするつもりなら受けてやる、とギッとにらみつける。
何に……どのことにそんなに腹を立てているのかは知らないが、こっちだってこんな扱いをされて黙っているつもりはないぞ、と。
振り向いたウォルターは、相変わらず険しい表情だったが、その中にひどく苦しそうな……苦々しげでもあるが、それだけではなく、どこか痛むような……つらそうな顔をしていて、アンディは戸惑った。
ケンカをするような雰囲気ではない。そうではない。
何か理解してもらえなかった時や、裏切られた時に人が見せる、悔しげな表情。
(昼間だましたことを怒ってるのか……?)
キスを見られたことを、内緒話をしていただけだと嘘を吐いたこと。そのことを怒っているのだろうかと、アンディは首をひねる。
「おまえさ」
ウォルターがアンディの腕を放し、かわりに肩をつかんで、低い声で言った。
「おまえ、アイツと付き合ってんの? それであんなことしてたの?」
「え……?」
声だけは静かすぎるほど冷静に、ただ低く、暗く、ウォルターが問うてくる。
アンディはぽかんとしてウォルターを見上げた。
その目をじっと見据えて、ウォルターが言葉を続ける。
「付き合ってんならいい。相手がアイツなのが気にくわないけど、校内でキスってのもマズイから一応そこは言っとくけど、でも付き合ってんならおまえもアイツも許すよ。別に俺が口を出すことじゃない。けどな……アンディ、あれはおまえが望んでしていることじゃないんじゃないか?」
怖いくらいに真剣なウォルター。
対して、何を言いだすやらと気が抜けてしまって、笑えたら笑い出したいような気分のアンディ。
バジルと付き合ってる? キスしたくてしてた?
(そんなことありえない……)
だいたい『許す』ってなんだ。本当に、ウォルターが口を出すことじゃない。
(いったいボクの何のつもりなんだろう……)
あまりのことに呆然とする。
「おい、アンディ! 答えろよ」
肩を揺さぶられ、答えを求められ、アンディは『はあっ……』と大きなため息を吐く。
ウォルターのは勘違いだし、めんどくさいし、馬鹿らしいしで。
アンディは目をすがめて嫌そうにぼそっと吐く。
「あれはなんでもないことなんだよ」
「なんでもない……?」
ウォルターが呆然として繰り返す。
アンディは『そう』とこっくんとうなずいた。
「なんでもないんだ。ただキスしてただけだし。別に付き合ってないよ。バジルも嫌がらせのつもりみたいだし。意味なんてないよ」
「本当か、それ……!」
昼のことがあるから疑っているのかと思ったアンディは軽く返す。
「本当だ。本当になんの意味もない、ただのキス」
とたんにウォルターの顔が歪んだ。
「サイテーだな」
「えっ」
床に向けてぼそりと吐き捨てられた言葉に驚く。
最低……?
(バジルの嫌がらせのことか……?)
きょとんとするアンディをウォルターがジロリとにらむ。
「おまえだよ、アンディ」
イライラと赤い髪をかきあげながら吐く。
「何それ。なんでもない? ただキスしてた? 何の意味もない? やっすい体だな、おい」
「だって……」
何を非難されているのかよくわからない。
「別にしたくてしてるわけじゃ……」
「抵抗しているようには見えなかったぞ」
「だってそれは……」
昼間は不意打ちだし、放課後は大量の本を抱えていたからだ。それに、知られてはいないし、教えるつもりもないが、もう何度となくしていることだ。たいしたことじゃない。
……安い体? 最低?
(なんでそんなこと言われなくちゃいけない……!?)
アンディは猛烈に腹が立ってきた。
さまよわせていた目をキッとウォルターに据えて、きつくにらみあげる。
「キスぐらいで騒ぐことじゃない。ボクのことをウォルターがどう思ってるか知らないけど……」
「どう思ってるかだって? アンディ……」
つかんだ肩をぐいと引き寄せられる。
「キスがどういうことかも知らないガキ」
抱きしめられ、くいとあごを手で持ち上げられた。
「え」
近付く唇。
薄く開かれたそれを凝視していたアンディは、寸前でウォルターを突き飛ばした。
「何をっ……」
カッとして怒鳴る声が震える。
突き飛ばされたウォルターの方は平然として、見下すような表情でアンディを見て言う。
「何をだって? こっちのセリフだろ、そりゃ。なんでもないことなんだろ? ただのキスじゃないか、おまえにとって。なんで突き飛ばすんだよ、俺を」
意表を突かれてアンディは言葉を失う。
なんでもないこと……ただのキス……確かにそう言った。
けれど……。
隙を見逃さず、もう一度腕がのばされる。今度はぐいと体を抱き上げられ、ドサッとベッドに投げ出される。慌てて起き上がろうとした体はウォルターの大きな体に押さえこまれ、両手首をつかまれ頭の横で固定される。そのまま、ゆっくりとウォルターが覆いかぶさってくる。
もがくが、体の大きさと重さと力でかなわない。
「い……!!」
降ってくる唇を、顔をせいいっぱい横に背けて、唇を噛んで避ける。
耳に熱い息がかかる。
ギュッと目を閉じる。
手首が強く握られる。
完全に、大きな体が包み込むように体の上に重なっていた。
逃がす気はないようだった。
顔のすぐそばにウォルターの顔がある。吐息を感じる。
「アンディ。こっち向けよ」
ささやきは低く怒りがこめられていて、全然甘くない。
「キスくらいなんてことないんだろ。そう言ったじゃないか、おまえ」
なじるように言われて、迷う。