ある夜のこと
逃げられないし、めんどくさいし、たかが唇に唇で触れられる程度のことだ。少しの間我慢すればいいことだ。そうだ、我慢していた。嫌だけど、我慢していた。だって体のことだ。自分の体なんてどうでもいい。痛みすら耐えられる。でも、これは……。
ウォルターとのキスは……。
横を向いたまま、震える唇を開く。
「嫌だ……!!」
こんな冷たい目をされて、こんな『最低』だなんてののしられて、こんな意志を無視されて、ただキスされるなんてこと、心が耐えられない。
いつも温かく自分に思いやりをくれるウォルターに、物みたいに扱われて、唇を許して 『安い体』だなんて蔑まれるなんて、いろんなことがいっぺんに壊れるような気がした。
「おまえとはしたくない……!!」
きっぱりと言いたかったが、喉がからからに渇いて、どうしようもなく震えて、蚊の鳴くような細い声しか出なかった。
したくないと言っても、ウォルターがする気になれば、されてしまうのだけれど。
頬をたどるようにしていた唇がピタッと止まった。
ふう……と大きなため息が耳にかかる。
それは、低い笑い声に変わった。
「……ウォルター?」
アンディはおそるおそる目を向ける。
ウォルターは顔を離して、ニヤニヤしていた。
「よかった」
心底嬉しそうに言って、アンディの上から退く。
ベッドに上半身を起こして、怪訝そうな顔でウォルターを見つめるアンディに、ウォルターは安堵を顔に出して言った。
「俺までどうでもいいなんて言われたらどうしようかと思った」
アンディは黙ってうつむく。ベッドのシーツを握りしめて。
ウォルターが少し慌てた様子で言った。
「悪い。手首、痛かったか?」
「……なんてことないよ」
ぼんやりとして返すアンディに、『ほらまた』と言ってウォルターが顔を覗きこんでくる。
「なんてことなくないだろ。そうやって全部なんでもないフリして、アイツとのキスも我慢してたんだろ。どうでもいいなんてことないんだぜ。キスだって」
長い指がそっと唇に触れてくる。熱くてかわいた人差し指の感触が何故だか不快ではなかった。
「なんでもなくするようなもんじゃない。お互いの気持ちが大事だ。どっちかに気持ちがないならするようなもんじゃねぇよ」
「……」
そんなふうに、大事にしてもらえるような、大事にできるような、そんな自分じゃない。
そう思って、アンディは何も答えられなかった。
少なくともウォルターは気にしてくれたんだから、その思いを踏みにじるようなことは言いたくない。
何故なら……。
ウォルターに少なくとも嫌われたくないと思っている自分に気が付いてしまった。
バジルとはなんでもないキスができる。でも、ウォルターとは無理だ。
その事実。
考えこんでいたところに、チュッと頬に大きく音を立ててキスをされ、アンディは驚いて頬を手で押さえて目を見開いてウォルターを見る。
「ウォルター……!!」
怒って名前を呼ぶと、二ヘッとこっちの気が抜けるような顔で笑って、ウォルターは言う。
「ごちそうさま」
さっき言ってたことと違うじゃないかと、アンディは怒りに震える。
ウォルターは真面目な顔になって続けた。
「もうアイツにあんなキスさせんなよ。本気になって抵抗しろ。どうでもいいとか思ってんじゃねぇよ。おまえの体のことなんだからな。他人のものじゃないんだぞ」
「うん。わかってる」
言われるまでもなく、もうさせられない。気持ちの上で。
どうだか、とウォルターは肩をすくめる。
「おまえ、ちょっとぼんやりしたところあるからな。気をつけろよ、アンディ。それはそうと、 ブレザー皺にならなかったか?」
失礼な……とムッとしていたアンディは、言われて自分の着ているものを確かめる。
その間にくるりと背を向けていたウォルターは、腰に片手を当て、ガリガリと後ろ頭をかいていたが、やがてぽつりと言った。
「……すまなかったな。そのぅ……」
ベッドから降りようとしていたアンディは、『ん?』と顔を上げて訝しげにウォルターを振り向く。
背中を向けたままで、ウォルターは言った。
「なんていうか、嫌がるってわかっててキスしようとしたこととか……悪かったな、色々と」
制服を脱ぎながら、アンディはジト目でウォルターの背中を見る。
心なしか、自分よりずっと大きくたくましいはずのウォルターの背中が、小さく見える。
しょんぼりと背中を丸めている。
アンディは唖然とする。
(え? 何? これが『ヘタレ』ってやつ?)
これだからウォルターは……と心の中で思う。
あれだけ強引にしておいて、それを後から悔やんで落ち込んでいるとか。
(なんなんだよ……)
憎めないというか、なんというか。
アンディはシャツも脱いで着替えを取りにタンスに向かいながら、いつものように話す。
「別にいいよ。おかげで自分の気持ちに気付けたし。これからは気をつけるようにする。そういうことにならないように避けるし、もしそういうことになったら、ちゃんと逃げるとか抵抗するようにするからさ」
「……ん」
振り向いたウォルターが嬉しそうに笑う。
アンディは替えのズボンを取り出しながら言う。
「ウォルターも早く着替えたら? 食堂しまっちゃうよ」
「あっ、そうだ!」
大慌てで自分のタンス……というより雑然と積み上げられた洋服の山……の方に向かうウォルター。
アンディはウォルターに気付かれないようにふうとこっそり息を吐いた。
どうやら、この同室の先輩を、自分はわりと嫌いじゃないらしい。
なんでもないキスができない程度には。
困ったことだ。
こんな気持ちは初めてで、よくわからない。
とりあえず、黙って抱えていける……と思う。
でも。
次に今日みたいなことがあったら平静でいられる自信がない。
どうしようか。
あれだけ拒否した口付けが、意識したとたん、惜しく感じてしまうなんて。
この想いはまだ恋ではないけれど。
そういう意味でキスしてほしいと思ってしまうなんて。
口元を手のひらで覆い隠してうつむく。
(どうかしてるな……)
ズボンを穿き終えたところにウォルターの声がかかる。
「アンディ、準備できたかー? 行くぞ」
「ああ、うん」
返事をして扉に向かう。ウォルターの待つ方へ。
「またぼんやりしてる」
コツンと頭を小突かれる。
「してないよ」
手を払いのけてムスッとして返す。
……まあ、しばらくは、こうしてなんでもないやり取りができるように。
今の関係のままでいられるように。
それだけを望んで。