押し入れの国のキトゥン
「おれ、ここでいい。」
治はそう言って、押し入れの戸を内側からぴたりと閉じた。
「ここがいいんだ。」
鷲津は胡座をかいて畳に座り込み───アランはこれをサムライスタイルと言っていたが彼流の表現なのかと思えばアメリカ人は概ね胡座をかくことをそう言って憚らないのだった───治の部屋だとは思えないほど埃でざらついた畳に手をついて、襖の柱に寄り掛かった。すぐ近くを走る市電の音がはめ込みの甘い窓枠を鳴らしながらガタンガタンと聞こえて来る。このところすっかり日が短くなった。まだ六時だと言うのに辺りはすっかり暗く、鷲津がつけた天井の白熱灯ひとつだけが頼りなく狭い四畳半を照らしていた。
「鷲津さんだって押し入れで遊んだことくらいあるでしょう。いやないか。」
「ある。」
「本当、おれね、押し入れで寝るのが夢だったんだけど、どうしても母さんが許してくれなくて、やっぱり今でも夢なんだよ。」
ああここ気持ちいい、と治は本当に満ち足りた声音で呟いた。
「夢は二段目だったんだけどね、やっぱり大人が乗って大丈夫に作られてるか分からないからさ、下の段にしとくけど、おれここがいいよ。しばらくここでいいや。」
「仕事は。」
「先週やめちゃったんだ。あの事務所。」
小さな間があって、治はもう一言続けて呟いた。
「鷲津さんのうちにも、しばらく、行かない。」
静かになった押し入れを背に小さな羽虫が一匹だけたかっている白熱灯を見上げた。白い笠に羽虫の影が不規則にちらつく。鷲津は押し入れの中の物音が聞こえないかと耳を峙てたが、ひっきりなしに近くを通る市電の音と羽虫が電球に当たるぱちぱちという音に邪魔されて、何も分からなかった。一週間単位以上の疲れがのしかかっているような重い体を引きずってキッチンへ行き、買って来た輸入瓶ビールの紙袋を床に置いて、手を洗った。この安普請は東京に出て来たばかりの治が住んでいたのとごく近い場所だということだった。品川の一等地を引き払って転がり込んだのがどうしてこんなところなのかと訝って質すと、押し入れと畳のある生活が恋しくなった、という温かな実感のこもった答えが返って来た。だからそれを信じていた。いや今もって嘘などないのだろう。畳に敷いた布団で寝るのが楽しみだと言っていた治の顔と、襖の隙間から伏し目がちにここでいいんだと呟いた治の顔はそんなに変わりがなく見えた。
鷲津はこのアパートの鍵は持っていない。明日は午前休を取るつもりでいたが、ここで一晩を過ごしていいのかどうか、いまひとつ判然としなかった。治がよく自分のマンションのキッチンでしているように、鷲津も勝手にキッチンの小さな冷蔵庫を開けた。驚いたことに冷蔵庫には電源が入っておらず、中は真っ暗で、カビ臭かった。ここへ越して彼は何日目だろう。よく知らない。忙しさにかまけてしばらく様子を見てやれなかった。鷲津のマンションを訪ねて来なくなって一週間だった。携帯でようやく今朝、一週間ぶりに話した。会いに行くと言うと、治はああと気のない声を漏らし、どことなく曇った口調でいいよ待ってると答えた。
グラスを探して鷲津は幾つも棚を開けたが、どこにも食器らしい食器は置いていなかった。栓抜きさえ見つからない。持って来たのがワインでなくて良かったと思いながら、紙袋からベルビュークリークの瓶を取り出した。治が教えてくれた変わり物のベルジャンビールだ。さくらんぼの香りのする真っ赤なビールは甘酸っぱいのにアルコール度数が高く、あまり飲むと悪酔いする。
「治。寝たか?」
押し入れに向かって話しかけると、襖に遮られて柔らかくくぐもった声がすぐに答えた。
「ううん。まだ。鷲津さん帰ってもいいよ。」
「わざわざ来たんだ、酒くらい飲ませてくれ。」
「ごめん、何もないようち。」
「買って来た。」
「そっか。」
「お前の好きなベルギーのビール。」
「ローデンバッハ?」
「いや。色は似てるが、さくらんぼを漬け込んだ方のだ。飲むか?」
「ううん。いい。」
トイレ行きたくなるじゃん、と治は笑った。
刑務所暮らしから戻り、髪を短く切って髭を剃った治の顔は、なんだか別の人間のように見えた。彼はいつも居心地悪そうにしていた。身を縮めてびくびくしていたわけではない。寧ろ長生きし過ぎた猫のように泰然と振る舞ったが、なんだか奇妙なところに迷い込んだな、という顔つきを常にしていたように思う。刑務所に入るまでの彼は、社会にしがみつく努力をしていた。飽くまで、最後まで、社会の枠の中で自分の望む物に手を伸ばし続けていた。自分のこめかみに銃口を押し付けた瞬間にも、やはり彼はまだ人間の枠の中にいたと思う。それがどうだろう。すっきりとした風体で戻って来た治は、高層ビルの谷間を行き交う人の群れを眺めながら、両手を温めているコーヒーまでにもどこか違和感を覚えているようなぼんやりとした顔つきでいることが多くなった。刑務所で何かあったのだろうか。治はなにも話さない。
うたた寝をしたような気がした。羽虫が電球と笠の間で暴れて鳴らすぱちぱちという音で目が覚めた。冷えきった部屋で耳を澄ます。薄い壁越しに隣の部屋からラジオの音が漏れ聞こえて来る。市電の音がしない。終電がもう行ってしまったのかも知れない。緑色のガラス瓶が畳の上に丸い染みを作っていた。瓶を持ち上げる。まだ半分ほど残っている中味が揺れた。
寒い。そう思って改めて四畳半を見回した。ストーブなど見当たらない。体が冷えると古い銃創が痛む。鷲津はつい参ったなと声に出した。脚を冷やすな、とは医者に再三言われていたのだが、ここまで冷えきると左足の感覚がほとんど無くなってしまうとは予想していなかった。どうやら最早自分では立ち上がれなくなったようだと悟る。凍死しそうだ。
左手の甲で治が閉じこもっている押し入れを叩いた。反応はない。
「治。」
返事は無い。眠ってしまったのだろうか。ため息をつくと、次いで苛立ちがこみ上げて来た。この寒い夜に毛布の一枚も寄越さないで、自分だけ押し入れの中で布団に包まって寝ているのかと思えば、腹も立って来る。クソ、と呟いて鷲津は体をひねって襖に手をかけ、軽く引いた。動かない。今度はもっと力を込めた。襖は音を立ててつんのめったが、爪一枚程度以上に隙間が開くことはなかった。
「治!」
襖がまた音を立てた。ぴしゃりと爪一枚の隙間が閉じられた。閉めやがった。
「開けろ。」
深呼吸一つ分の間があって返答があった。
「無理。」
「無理ってなんだ。」
「開けたくない。」
「帰る。」
「うん。わかった。」
「一人じゃ立てない。」
「ごめんなさい。」
苛々と襖を叩いた。治が向こうから押さえている。
「開けろ。」
「無理だって。」
「お前、俺を凍死させたいのか。」
「だから、帰っていいってば…!」
治が押し入れの中で泣き出した。鷲津は当惑して襖を叩くのを止めた。
「治。」
「おれここがいい。夢が叶った。ここで良かったんだ。」
治はそう言って、押し入れの戸を内側からぴたりと閉じた。
「ここがいいんだ。」
鷲津は胡座をかいて畳に座り込み───アランはこれをサムライスタイルと言っていたが彼流の表現なのかと思えばアメリカ人は概ね胡座をかくことをそう言って憚らないのだった───治の部屋だとは思えないほど埃でざらついた畳に手をついて、襖の柱に寄り掛かった。すぐ近くを走る市電の音がはめ込みの甘い窓枠を鳴らしながらガタンガタンと聞こえて来る。このところすっかり日が短くなった。まだ六時だと言うのに辺りはすっかり暗く、鷲津がつけた天井の白熱灯ひとつだけが頼りなく狭い四畳半を照らしていた。
「鷲津さんだって押し入れで遊んだことくらいあるでしょう。いやないか。」
「ある。」
「本当、おれね、押し入れで寝るのが夢だったんだけど、どうしても母さんが許してくれなくて、やっぱり今でも夢なんだよ。」
ああここ気持ちいい、と治は本当に満ち足りた声音で呟いた。
「夢は二段目だったんだけどね、やっぱり大人が乗って大丈夫に作られてるか分からないからさ、下の段にしとくけど、おれここがいいよ。しばらくここでいいや。」
「仕事は。」
「先週やめちゃったんだ。あの事務所。」
小さな間があって、治はもう一言続けて呟いた。
「鷲津さんのうちにも、しばらく、行かない。」
静かになった押し入れを背に小さな羽虫が一匹だけたかっている白熱灯を見上げた。白い笠に羽虫の影が不規則にちらつく。鷲津は押し入れの中の物音が聞こえないかと耳を峙てたが、ひっきりなしに近くを通る市電の音と羽虫が電球に当たるぱちぱちという音に邪魔されて、何も分からなかった。一週間単位以上の疲れがのしかかっているような重い体を引きずってキッチンへ行き、買って来た輸入瓶ビールの紙袋を床に置いて、手を洗った。この安普請は東京に出て来たばかりの治が住んでいたのとごく近い場所だということだった。品川の一等地を引き払って転がり込んだのがどうしてこんなところなのかと訝って質すと、押し入れと畳のある生活が恋しくなった、という温かな実感のこもった答えが返って来た。だからそれを信じていた。いや今もって嘘などないのだろう。畳に敷いた布団で寝るのが楽しみだと言っていた治の顔と、襖の隙間から伏し目がちにここでいいんだと呟いた治の顔はそんなに変わりがなく見えた。
鷲津はこのアパートの鍵は持っていない。明日は午前休を取るつもりでいたが、ここで一晩を過ごしていいのかどうか、いまひとつ判然としなかった。治がよく自分のマンションのキッチンでしているように、鷲津も勝手にキッチンの小さな冷蔵庫を開けた。驚いたことに冷蔵庫には電源が入っておらず、中は真っ暗で、カビ臭かった。ここへ越して彼は何日目だろう。よく知らない。忙しさにかまけてしばらく様子を見てやれなかった。鷲津のマンションを訪ねて来なくなって一週間だった。携帯でようやく今朝、一週間ぶりに話した。会いに行くと言うと、治はああと気のない声を漏らし、どことなく曇った口調でいいよ待ってると答えた。
グラスを探して鷲津は幾つも棚を開けたが、どこにも食器らしい食器は置いていなかった。栓抜きさえ見つからない。持って来たのがワインでなくて良かったと思いながら、紙袋からベルビュークリークの瓶を取り出した。治が教えてくれた変わり物のベルジャンビールだ。さくらんぼの香りのする真っ赤なビールは甘酸っぱいのにアルコール度数が高く、あまり飲むと悪酔いする。
「治。寝たか?」
押し入れに向かって話しかけると、襖に遮られて柔らかくくぐもった声がすぐに答えた。
「ううん。まだ。鷲津さん帰ってもいいよ。」
「わざわざ来たんだ、酒くらい飲ませてくれ。」
「ごめん、何もないようち。」
「買って来た。」
「そっか。」
「お前の好きなベルギーのビール。」
「ローデンバッハ?」
「いや。色は似てるが、さくらんぼを漬け込んだ方のだ。飲むか?」
「ううん。いい。」
トイレ行きたくなるじゃん、と治は笑った。
刑務所暮らしから戻り、髪を短く切って髭を剃った治の顔は、なんだか別の人間のように見えた。彼はいつも居心地悪そうにしていた。身を縮めてびくびくしていたわけではない。寧ろ長生きし過ぎた猫のように泰然と振る舞ったが、なんだか奇妙なところに迷い込んだな、という顔つきを常にしていたように思う。刑務所に入るまでの彼は、社会にしがみつく努力をしていた。飽くまで、最後まで、社会の枠の中で自分の望む物に手を伸ばし続けていた。自分のこめかみに銃口を押し付けた瞬間にも、やはり彼はまだ人間の枠の中にいたと思う。それがどうだろう。すっきりとした風体で戻って来た治は、高層ビルの谷間を行き交う人の群れを眺めながら、両手を温めているコーヒーまでにもどこか違和感を覚えているようなぼんやりとした顔つきでいることが多くなった。刑務所で何かあったのだろうか。治はなにも話さない。
うたた寝をしたような気がした。羽虫が電球と笠の間で暴れて鳴らすぱちぱちという音で目が覚めた。冷えきった部屋で耳を澄ます。薄い壁越しに隣の部屋からラジオの音が漏れ聞こえて来る。市電の音がしない。終電がもう行ってしまったのかも知れない。緑色のガラス瓶が畳の上に丸い染みを作っていた。瓶を持ち上げる。まだ半分ほど残っている中味が揺れた。
寒い。そう思って改めて四畳半を見回した。ストーブなど見当たらない。体が冷えると古い銃創が痛む。鷲津はつい参ったなと声に出した。脚を冷やすな、とは医者に再三言われていたのだが、ここまで冷えきると左足の感覚がほとんど無くなってしまうとは予想していなかった。どうやら最早自分では立ち上がれなくなったようだと悟る。凍死しそうだ。
左手の甲で治が閉じこもっている押し入れを叩いた。反応はない。
「治。」
返事は無い。眠ってしまったのだろうか。ため息をつくと、次いで苛立ちがこみ上げて来た。この寒い夜に毛布の一枚も寄越さないで、自分だけ押し入れの中で布団に包まって寝ているのかと思えば、腹も立って来る。クソ、と呟いて鷲津は体をひねって襖に手をかけ、軽く引いた。動かない。今度はもっと力を込めた。襖は音を立ててつんのめったが、爪一枚程度以上に隙間が開くことはなかった。
「治!」
襖がまた音を立てた。ぴしゃりと爪一枚の隙間が閉じられた。閉めやがった。
「開けろ。」
深呼吸一つ分の間があって返答があった。
「無理。」
「無理ってなんだ。」
「開けたくない。」
「帰る。」
「うん。わかった。」
「一人じゃ立てない。」
「ごめんなさい。」
苛々と襖を叩いた。治が向こうから押さえている。
「開けろ。」
「無理だって。」
「お前、俺を凍死させたいのか。」
「だから、帰っていいってば…!」
治が押し入れの中で泣き出した。鷲津は当惑して襖を叩くのを止めた。
「治。」
「おれここがいい。夢が叶った。ここで良かったんだ。」
作品名:押し入れの国のキトゥン 作家名:Julusmole