それぞれの一日の終わり
カタンッ……
水の入ったコップを台所のテーブルの上に置く。
他に人のいない部屋にその音はいやに響く。
チッとバジルは舌打ちした。
食事は済ませた後だった。
孤児院にいた頃にその頭の良さを認められて養子にもらわれたこの家では、養父が薬品会社の研究員、養母が病院で働く医者と、ふたりとも忙しくてあまり帰ってこない。
そのかわり、自由になる金はいくらでも与えられていて、今日も帰りに適当に上品な店を選んで弁当を持ち帰って食べた。
二千円ほどだったか。
困ることは何もない。
洗濯や掃除は昼間来る家政婦がやっている。
何もすることはない。ただ成績は期待されているが、それに応えるだけの能力はあるつもりだ。
そこで、ふとレポートのことを思い出す。
(アンディ……)
バジルは再び舌打ちした。
(なんであんな奴と組んだんだか……)
いい成績を望むなら、他に組む相手はいくらでもいた。いや、自分とは組みたがらないだろうが、組む気にさせる手はいくらでもある。そういうことはいい。
アンディだって決して頭が悪いわけではない。ただ、やる気が見られないだけで。どうやら成績のことはどうでもいいと思っているようで。
アンディにとって大切なことは今は執行部の仕事のことだ。
知っている。わかっている。そういう奴だ。
養子にもらわれる以前は孤児院で一緒に生活していたし、一時期バジルは養父の希望で小学校を変えたため離れていたが、中学ではまた一緒になったし、クラスまで一年の時から同じだ。
狙ったわけではない。むしろ不思議なくらいだ。
なんといっても私立の学校だ。孤児で、中学で、普通なら無理だ。
おまけにアンディは孤児院から出て寮に入ったという。
寮は無料じゃない。よくそんな金があったものだ。
誰かがアンディを援助しているということだろう。養子にはなっていないはずだが。
まぁ、それはいい。
バジルがあまりいい成績を取ることにあまり熱心ではないアンディをレポートの相手に選んだのは、いつもの嫌がらせをしてやりたかったからだ。
レポートを作成する間に、キスをする機会はいくらでもある。
避けることも難しいはずだ。
どうしても顔を近づけなければならないし、ふたりきりでいる時間も増える。
実際、夕方の図書館では、うまくキスに持っていくことができたのだ。
アンディにたくさん本を持たせて、本棚に押さえつけ、逃げられないようにして。
(それをアイツが……!)
ウォルターが現れ、横からさらっていった。
(ちくしょう……っ!!)
あの唇で、たっぷりと遊んでやるところだったのに。
さらりと揺れる淡い金色の髪、こころもち傾けて持ち上げられた顔、その白い頬。ふせられた大きな目。わずかに開かれた桜色の唇。
いつも吸い上げると少し赤くなる唇……。
そして、あの大きな瞳は、じっとバジルを見つめて。
怒って見据えられているのだということはわかっている。
だが、それがなんとも心地よい。
キスの後、アイツの目に映っているのは、いつもバジルだ。
それがたとえほんの少しの間だけでも。
それを……。
コップを握りしめて口まで運び、中の水を一口飲んで、またダンッと叩きつけるようにテーブルに置く。
思い出すのは、真っ赤な頭に、片耳に十字架のピアスをした、いつもアンディと一緒にいる、執行部の上級生。
(あのウォルターとかいう奴……)
気に入らない。面白くない。ムカムカする。
ウォルターに見られたと気付いた瞬間アンディは抵抗し、身を離して、その腕をつかんでウォルターが強引に連れ去った。
昼間はわざとアイツの見ている前でキスした。
どうなるか見物だと思った。
それがまさか、こんなことになるなんて。
きっとアンディはこれから警戒して、キスがしにくくなるだろう。
アイツはあの様子だとアンディを問い詰めたに違いない。
今までのことを訊き出して、きっと怒ったはずだ。
あの保護者気取りの汚い奴は。
何を言ったかすらすら察しがつくというものだ。
どうせ『もっと自分を大事にしろ』とかだろう。
そして、アンディもあの様子では、奴の言うことを素直に聞くに違いない。
少なくとも、これからキスするところをアイツに見られたくないと思っているだろう。
厄介だ。
(せっかく手に入れたおもちゃだってのに……)
いや、手に入れる途中だった。
遊び方を覚えただけだ。
金を出して買う前に無料で試してみるゲームと同じ。
まだ手に入れてはいない。これからだった。
(それをあの野郎……)
先に買われて手に入らなくなることと同じ。
悔しくて寝られそうにない。
とうてい許せない。
空をにらんでじっとする。目の前にいまいましい相手がいるかのように。
……だが、やがてバジルの口元に笑みが浮かぶ。
片方の口の端を持ち上げただけの歪んだ笑み。
(さて、どうやって奪ってやろうか……)
ぞくぞくとする。
どっちをどうしよう。
手に入らないおもちゃなら壊してしまえばいい。
あるいは、持ち主のほうが壊れてしまえば。
どちらにしろ、それはバジルにとってこれ以上ないほどの楽しみだ。
とにかくレポートはアンディとやることになっている。
ここしばらくはふたりきりになるチャンスが待っている。
これから退屈しないで済みそうだ。
バジルは満足して寝室へ向かった。
(閉)
作品名:それぞれの一日の終わり 作家名:野村弥広