それぞれの一日の終わり
ウォルターは、二段ベッドの上の段で、仰向けになって天井を見つめながら、今日一日を思い返す。
食堂で夕食を食べた後、部屋に戻って、横に並べられた机で、アンディとふたりしてそれぞれの授業の宿題をやっていた。
その時に、アンディのレポートの課題の話を訊き出した。
バジルとふたりで組んだというので気になったのだ。
ふたり一組で世界中の作家の中からひとり選んでその生涯をまとめること、だそうだ。
そして、アンディ達が選んだのは。
(『エドガー・アラン・ポー』ねぇ……)
よりにもよって、ポーとは。
なんという嫌な偶然だ。
ポーの作品に、『大鴉』という詩がある。
恋人を亡くした男の元に大鴉が現れ、何を訊かれても『Never more』と答えるという、 なんとも……一般的な感想ならば『不気味な話』だろうか。
Never more、Never more、Never more……。
男は最後には狂ってしまう。
ウォルターはギリッと奥歯を噛み締める。
よみがえる、死んでしまった幼馴染みの女の子のこと。
その姿、その声、言葉、笑顔……。
Never more……もう戻らない。
彼女には二度と会えない。
(くそっ)
ウォルターは寝返りを打って壁の方を向いた。
(やめだ、やめやめ)
こんなことを考えていたら、いつまで経っても本当に眠れない。
明日も学校があるというのに。
幼馴染みのことを頭から追い払うと、自然と浮かぶのは、同室の後輩、アンディのこと。
二段ベッドの下からは、規則正しい寝息が聞こえている。
ウォルターは口元に笑みを作る。
アンディはすやすやとよく寝ているようだ。
あんなことがあったわりに。
(まったく……)
マイペースというか、なんというか。
そのわりにちっとも自分の体を大切にしない。
あと、案外押しに弱い。
もうバジルに勝手にキスはさせないと言っていたが、大丈夫だろうか。
ふたりで授業の課題をやるから、近寄らないことは無理だと言っていたし。
心配だ。
朝に言っていた『問題』というのはまず間違いなくアイツとのキスのことだろう。
ということは、もう前からああいうことがあったということだ。
(アイツめ……)
思い出すのは、垂れ眉で少しつり上がり気味の大きな目をした、いつも白っぽい服ばかり着ている少年、バジル。
(アンディをおもちゃにしやがって……!!)
何が嫌がらせだ。そんな嫌がらせがあるもんか。
いや、苛めたいと思っているのだろうとは思う。だが、それは、好きな子のスカートをめくる幼稚園児のようなもので。
そう、好きなのだ、アンディを。
そういう意味でアンディを欲しがっている。
本人が気付いているかどうかはわからないが。
(バレバレだぜ……)
幼稚園児並みの愛情表現しかできない、無駄に体の大きい中学生なんて、たちが悪い。悪すぎる。
考えたくもないが、キスだけで満足しているならいい。
いや、よくはない。
キスのことを欲望の捌け口というと大袈裟だが、それだけでもじゅうぶん許せないことなのだ。
アンディをその対象にしていたなんて。
(許せねぇ……)
恋愛感情の表現としてではなく、まるで気に入ったおもちゃで遊ぶように、相手の意志を無視して、感情を無視して、アンディには嫌がらせだなどと思わせておいて、ただの自分の欲望からキスしていたなんて。
自分の本当の気持ちと向き合おうともせず、適当な、遊びと同じように軽く、唇で触れていたなんて。
(ちくしょうっ……)
怒りとともに吐き気が込み上げる。
(汚ねぇやり方しやがって……!!)
アンディの意地っ張りなところや負けず嫌いの性格を知って利用したその手口。
アンディはいったい何度アイツとキスしたんだろうか。
その度になんでもないことだと自分に言い聞かせて耐えていたんだろうか。
自分を大事にしないから、半分は本当にそうだったとしても。
ギュッと目を閉じる。
まぶたによみがえる、ベッドに押しつけて無理やりキスしようとした時のアンディの横顔。
シーツに散らばる淡い金色の髪。まだ幼さの残るなめらかな頬の曲線。ギュッと寄せられた眉。固く閉じられた大きな目。きつく噛みしめられた唇。
泣き出すのかと思った。
そんな顔だった。
何かを、ひどくつらいものを、本当は耐えられないものを無理して堪えているような……涙をせき止めているような……それが今にも崩壊して泣きわめきそうな、そんな表情で。
罪悪感を覚えるにはじゅうぶんだった。
アンディは強い。何を言われても、何をされても、泣いたところを見たことがない。
とはいえ、やはりまだまだこどもなのだ。
心の奥底から本当にキスをなんでもないことと割り切っているはずがない。
(それをあの野郎はっ……!!)
大切にしていたものを汚されたような気持ち。
この場合、大切にしているものは、アンディの自尊心。
もちろん体もだが、どちらもアンディ自身のものだ。
それでも、バジルを憎らしくて憎らしくて殴ってやりたいと思うくらいに、ウォルターにとっても大切なものだった。
入学式に初めて会って、本人がその場で執行部に入ることを決めて、必然的に寮の同室になって……。
ずっと見守ってきたのだ。
学園の嫌われ者の執行部に自ら入ることを決意して、可愛い後輩になった時から、ずっと面倒をみてきた。
その誇り高い真っ直ぐな心は、どんな宝石より美しいとさえ言えると思う。
それを、踏みにじるようなことを、バジルはしてきたのだ。
とうてい許せることではない。
本能的にわかる。アイツは危険だ。
こどものままの心。
意識せずに愛情を欲している。
なんでも欲しいものは手に入ると思っている、手に入れるための手段は選ばない。
そして、こども特有の残酷さをまだ持っている。
いや、年を重ねただけになおいっそうひどいはずだ。
こども特有の残酷さとは、美しい蝶の羽根をもいで落として地面にもがく様を観察するようなところ。
支配欲、所有欲、そして恐らく……本能に忠実。欲望のままに動く。しかも、頭はいいようだった。
最悪だ。
アンディに気をつけろと言ったけれど、それだけじゃ足りない。
(俺が気をつけてやらないと……)
取り返しのつかないことにならないように。
今までよりもっと、近くに、そばに。
手を離してしまって失うのは二度とごめんだ。
ふと、ポーの詩の一節がよみがえる。
Never more.
(冗談じゃない……)
寝返りを打って、暗闇を見つめる。
大切にしているものは二度と失えない。
たとえ、どんなことになっても。
作品名:それぞれの一日の終わり 作家名:野村弥広